ソリチュード論理式

  私は特にこの一年間、いろいろ考えて過ごしてきた。某イングというところでも考え続けたし。ずいぶんと自分を自由にしてやれるよう変化もしてきた。

 

しかし。

悩める根本は、まだ変わらないどころか、深くなった感もある。
 

 

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行きつけの中国料理店、コロナで営業時間短縮 、がらんとした店内、

生ビールは悪くなってしまうから採算合わず、もう置いてない。

嗚呼、もの思ふ日々のこの心、

瓶ビールついだコップの中に浮かんだ白い鳥の如く儚きことこの上なし。

 
 
【私の中の葛藤】
 私の中にある葛藤は、
「人と共鳴したいのに(自分を貫くためにそれを)諦めている」
ということ。
 
 一年前まで、人と共鳴したがるなんて、そんな甘っちょろいのは自分ではないと思っていたけれども、やたらと自分の内部を掘り下げていったら、恥ずかしながら、そうだったもよう。つまり、真の私は、人と共鳴したがりまくっていた。自分の誠意を伝えたいし、相手の誠意をそこに感じたい。その響きあいがあると、無性に嬉しい。らしい。私は。どうも。そこを歌でやりたがるから、さらに悩みが複雑に絡み合うことにもなっていたんだな。
 
 
【ソリチュード論理式A】
今は、歌はおいておく。
共鳴したいのに、諦めざるを得ない、諦めがつきまとう、ということについて。 
 
人と共鳴したい。けれど、なかなかそれができない。こっちの誠意を見せては、相手の態度にがっかりさせられる。
自分の誠意の方を、けれど、捨てるわけにはいかない。
自分を貫こうとすると、相手を諦めざるを得ない。
 
 期待 → がっかり → 諦め → 孤独
 
私のソリチュード論理式。
このパターンの中にいるという自覚はあったけれど、「孤独も幻想」って言うし、そう思いたい。孤独なんて、カッコよくもなんともない。はずしたい。はずせるものなら。
 
 しかし、いろいろ考える指針を求めてたどりつき、例えば、去年の5月から今年の4月までの一年間、腹をくくり腰を据えてご指導を仰いでいた某イングに対してさえも、やっぱりこのパターンで締めくくることになった。日本人講師陣、外国人講師の言動、反応。誠意のなさ。スピハラとも言える言動。終始というほどではないが、後半、終盤、だんだん露呈してきた。
  それはある意味、私にはもうこの星で諦めや孤独を感じなくなることは不可能なのではないか、と思われ、これからのすべてへの意欲低下につながるほどの大きなことでもあった。その人たちの問題というより、私が考えさせられるために、私に起きていることとして。なんかこの世って、もうどこへ行ってもこの程度なのかなー、と。
 
 
【ソリチュード論理式B】
 相手への期待というのは、他者に自分が思い描いたとおりに振る舞ってほしいと願うこと。願いどおりになれば嬉しい。そうならなければ嬉しくはない。相手の言動で、自分が一喜一憂してしまうということ。自分の機嫌を相手にとらせているということ。
 
そんな、外への期待はずいぶんしなくなってるし、もしやっていても、あーまた期待していた、とすぐ気づくから、まぁまぁの速度で期待は外せるようになってきていると思う。
 
でも、ここに来てやっぱりまだ諦め、孤独感が減ってない感じは、なんなのか?
自分の外側で起きたこと、内側の反応。
合わせて考え、並べて見つめた。
「相手への敬意」が、ソリチュード論理式Aの「期待」の位置に入る時に、この孤独感は来る。
 
 相手への敬意 → がっかり → 諦め → 孤独
 
ソリチュード論理式B。
問題は、論理式前半だろう。
これまではずっと、がっかりしたら、相手にそんな高いものを求め ”過ぎ” ていたこっちがバカだった、と「過ぎ」の部分は反省して無くしつつ、「高いもの」はきっとどこかにあるはず、まだ出会っていないだけだと、それを生きる希望として、「次」を探してさまよっていた。ずーーーっと。すべてにおいて。
 
そう考えると、「さまよう」ことすら、希望があったからできたことだったのか。
希望が消えると、ほんとに、止まる。
行きたい方向にそれを理性で抑えるような逆の力も働くから動けない、それが葛藤だと認識したところから某イングで考える道も始まったはずだったが、それら両方の力自体が消えた感覚のほうが近い。引っ張り合うこともなく、ただ停止してしまう感覚。
これでよい筈がない。
どうしたらいいんだろうか。
 
 
【村長を尊重する】
 全幅の信頼を置いて尊敬申し上げていた村長さんが、
ある日ヒトとしてしょーもない言動をしたとする。
ヒトとして。
村長として、ではなく。
 
村長もヒトなんだから、そうそう
いつも自分の思い描いたとおりのふるまいだけを
してくれるわけではない、
だから自分の心の方を広く持て。
 
わかるけれど、そんだけかなーヽ(´▽`)/
村長を尊重するとは、それだけのことなのかなーヽ(´▽`)/
 
 村長が、村のことで話しをしに来た村民に、ひとり感情的になって暴言を吐く。後で我が身を正当化する言い訳したりとか。
 村長が村議会の準備に全く時間をかける気が無くて、会議開始直後からグダグダ。言い訳だけは多い、とか。
 これまで名采配で数々の困難を解決、信頼を得てきて再選されていた村長が、急に気分のムラで(村だけに((((;゚Д゚)))))))! )チョー身勝手、感情的な判断を下し、それを大成功だみたいにシラバックレるとか。
 
私の中ではつまり、現村長がそういう振る舞いをするたびに、村長もヒトだもの相田みつを、と言い聞かせ、新しい村長を選ぶやら、新しい村を探すやら、していたわけだ。 
 
 けれど、みつを100パーの見方で村長をヒトとして村長するおっと、尊重するだけでなく、その人の手腕、才能、人柄のような部分への敬意もあってこそ、村長は村長然としていられるし、そこの村人たちは心の底から安心し、信頼のもとに日々を過ごしていられるものなのではないだろうか。
 
 無意識に役割を押し付け合い、背負ってしまう社会意識は憂いを作るもとだが、自由意志による役割というのは、社会的動物としてのヒトが理想的に安住できる文明とか文化の一部なんじゃないかと思うんだがなー。
 
そこに生じる(ように思われる)「敬意」を、どう扱えば
ソリチュード論理式Bを導かずにすむんだろうかしらららー?
もう、歌っちゃう┐(´д`)┌
 
 
【歴代がっかり村長】
ヒトである不完全な部分はわかった上でなお、
そのヒトに備わった個性や才能みたいな側面も捉えて接する時に持つのが敬意であり、
そこがヒトの世の美しいところなのではないか。
私がずっと、ほんとうは接する人々すべてに対して
求めてきているのは、そこなのだ。
 
今まで私が本気でがっかりしてきた村長たちというのは、
私のその接し方の中で、ぽろぽろと村長の座から
剥がれ落ちていった人たち。
 
両親も。
大学院で指導を受ける立場にあった教師や先輩たちも。
結婚するつもりだった人も。
打ち解けて話したことのある友人たちも。
ASKAも。
CHAGEはちがうよ。CHAGEはすごいよ。
 ASKA村長が剥がれ落ちていったのは、
 報道なんかより後のことだよ。
 私の名誉のために言っとくよ。
 やらかしたからじゃないよ。
 復活の歌が全然復活になってなかったからだよ。
 何度も言うよ。
 おれは確かに、君を愛してたんだ。
 ここじゃもうやめとくよ。)
某イングも。
 
大前提として「敬意を払う」対象だった相手が、
想定していたレベルより甚だ低かった、
その程度だったのかよ・・・
という現実にがっかりするということは、
「想定するな」
ということになってしまわんかな。
「敬意」自体が、「幻想」だということに。
 
他者に一切の敬意を払うことをせず、
自分のうちに向いておくしかないことになる。
自分の世界は、自分の思いで作られるというのに。
 
「共鳴したいのに(自分を貫くために)諦めるしかない」
という私の葛藤は解消されない。
 自分は自分、と思ってくだけでは解決しない。
 
 
【違うよって言っておくれ】
ちがうよ、と誰かに言ってほしいわー。
この論理式の間違いを、ひゅ〜と紐解いて欲しい。
 
私はヒトに敬意を払い続けたい。
私は誰かにずっと敬意を払っていたい。
ただ身を預けるかのように。
敬意が幻ならば、希望が無い。
 
結局、「ヒトは孤独」が結論なのかもしれない。
「孤独は幻想だ」とテキトーに言い放ったどなたかの間違いだった
というだけなのかもしれない。
 

この星で私はどこまで生きられるだろう。

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嗚呼。白き尾羽がやうやう溶けてゆく。

儚きこと、私の心の如し。