【おしえて!オラクル先生】ソリチュード論理式はまちがい。らしい。(4)
サンファルを悩ますソリチュード論理式。
そのロンリネスは少しずつ崩壊の兆しを見せ始めている。かも。
そのダメ押しとなるか?今回は、
悉曇(しったん)せんせいと、タリワラせんせいからのお言葉をちょうだいする。
(タリワラさんとは、あるお方のガイドさま)
そして!
タリワラ先生に、これに関連する大事なもう一件を尋ねたことから、
論理式崩壊への道を模索するぜ。
【悉曇カード】一枚引き。
Q:ソリチュード論理式から逃れるには、どうしたらいいですか?
やっぱり、なんかとにかく、ここで悩むまでに、
一巡りしてきてんだよな。
それが、ソリチュード論理式Aでなく、Bで悩んでるというとこなんだとも思う。
でも、これまでの体験が完全に完了できていないというわけだろう。
それはつまり、ソリチュード論理式がBであろうがAであろうが、
つまりは、他人軸の古い感覚のままでいるという点は同じで、
その段階を完了させれば、新しい現実が作り出せる、という。
これまでのオラクルメッセンジャー先生たちと、言ってるのは同じことだ。
「あの時、あの場面」について、詳しくは、ウェブで((((;゚Д゚)))))))
(次回な。)
<Charity 慈善 ♣︎4>このカードを選んだということは、最近他人に対して不親切であったということ。
(この私が、不親切?!逆だろうによ。)
心の中にはまだその記憶が残っている。それを引きずり出して、正面から向かい合って、解き放ちなさい。」
(私はしばらく幾重にもコトが重なって不愉快ではあったから、
その相手との対面場面ではそりゃあ、満面の笑みではなかったよね。
それのことなのでしょうか。)
↓
相手の態度は、不親切な人どころの話ではなかったわけだけれど、
確かに「あの時」、私はその人について、
ぅわーこんなに、自分に不利にしかならない態度をとってしまう人だったのかよー、
と、明らかに「判断」を下しながら、
つまりは、「あららー・・・この人も ”違ってた” のか」と残念がりつつ、
不快な個人攻撃の言葉を浴びせられ続けていた。数十人の前で。
誰も何も言えない。言わない。
あとで、「あなたは何も悪くない」とか慰めて来てくれたりした人たちはいたが。
本人の発言の中には、あとで正当化するような表現も何度かあった。
それをも、あれをも、思いやりと寛容の精神で?包み込め、となー。
だから、そうなんでしょうね。その方向なんでしょうね。
だから、だけど、
仮によく言う母親が子を見守るような、ただただ
相手の不完全なところにも、なぜそんな態度をとってしまったのかを
奥深く見つめて共感もできるほどまでに包み込んであげている
という「慈母」状態と、
敬意を払って、いわば謙虚な気持ちで相手を高め、
こちらは従順にそこから吸収していこうとしている関係性、
その相手の、敬意を払うに値しなかったと知らされる行動に対しても
寛容でいろといわれている「茫然自失の弟子」状態とが
私、まだイコールにならないのです。
イコールになってないということは、
この後者、つまり、
「こんなハズじゃなかった、こんなに真剣に慕っていたのだが、
自分が間違えてたのか・・・?!」
と、立ち尽くしている弟子の方には
まだまだエゴイスティックな要素がベタベタ付いているということになる。
ハズ:自分の予測、期待による設定
(満たされるか否かは相手次第。自分の機嫌とりを、相手に委ねた状態)
こんなに真剣に〜間違えてた:かけてきたエネルギー、時間を捨てるのは損だ
(過去に執着、変えたくない、認めたくない)
慕っていた:相手の能力、才能への敬意、全幅の信頼が大前提
(★ここだよな、やっぱり。
ここには、「その才能を認めている自分の価値」も入っている、ということか?
「あれらのヒト、コト、モノでなく、”この対象” に敬意を払っている自分」の意識とは、他の「あれら」と比較しての優位性を感じたがるところにある、ということか?)
でも私が素朴に言いたい「敬意」って、単にこういう感じなんだ。
オリンピックの、例えば、なんでもいいけど、フィギュアスケートの誰とかの演技に心から拍手大喝采する、その意識の中には、そこまでがんばった努力を労う、とかの理屈だけじゃなく、その努力によって磨き上げることのできたそもそもの天賦の才能というものへの、ため息が漏れるほどの無条件の憧れとか、大げさに言うと畏敬の念みたいなものも、入ってるだろ?
で、そゆ時、単に嬉しいやろ。なんか、単に。わ〜すごいな〜、好き〜、とか。そういう感覚が持ててこそ人間なんじゃないのかね、と思っているわけだ。
そして、そゆ相手がもし仮にその後、社会的におバカな発言したとか、何かやらかしてしまったとかしたとすると、がっかりするとこあるだろ。街ゆく人々がそんなニュースへのインタビューに答えてるだけにしろ、大ファンが語ってるにしろ、それなりに、がっかりしてるわけやろ。
そゆところ・・・・・
まーーー、結局は、がっかりからの立ち直りの差でしかないのかね。がっかりさせられた瞬間に、「まだ若いからなー」とか、「まーやっぱ俺たちと変わんないなー」とか言ってさっさとそれまでの美化していた妄想に気づいて等身大に戻せば(こき下ろせば)済むところを、私は、そのがっかり部分をやたらと大きく感じてしまっているだけなのだろうなぁ、結局は。
思い入れが大きい私の意識が、すぐまた相手を肥大化させてしまう妄想を生んで結局ギャップが生じているのか?
精神世界を教えてくれていたハズの、未来のことが読めるハズのゲリー・ボーネルというヒトのハラスメントに対しても。
私の世界はこの人たちがいなかったら成り立っていなかったとまで感じ続けてきたCHAGE & ASKA の、あの情けない出来のASKA復活コンサート(復活できてないコンサート)に対しても。
両親に対しても。
そうか?人間として、己の足で立つためにこそ、それらの人々を、「単に、慕う」ということの中に、妄想が混じり込んでいるというのか?
ちょっと、今回はここまで。
次回、実際のサンファルのがっかり感を検証しよう。