さっちゃんは、クモ嫌い。

ずっとクモがこわかった。

今もこわい。

古い家にいる、大きいやつだ。

 

種類もいろいろあるのだろうが、

そういう名称や、クモという音や、

あの画数の多い二つの漢字の字面を

見ることすらイヤなほどなので、

ここではカタカナで書くだけにしておく。

カタカナでもイヤだけど。

 

実家はとても古い建物だったので、

特にそれは頻出していて、

それらが大きくなる時期は、

毎夜、本気で恐怖だった。

 

私がそれを見た次の瞬間には

もう反射的にその空間から飛び出しているほどで、

時間的には一瞬しか居合わせないので、

後で親に「さっき出てきたのは、

これこれこういうふうな姿だったから

この前出てきたのとはまた違うやつだ(から、

まだ別の大きいのがこの辺にいるはずだ)」などと訴えても、

 

一瞬しか見てないくせに

そんなことまでわかるはずがない、と

一笑に付され続けた。

 

けれど、人間、

究極まで真剣になった「瞬間」の場面は、

永遠に匹敵する長さの中で

瞼に焼き付けてしまうものだ。

生きるために獲物を追っていた人々が

ラスコー洞窟に描いた壁画が、

高速カメラが出来て明らかになった

動物たちの脚の動きを

既に正確に写し取っていたというのも、

そりゃあ当然だ、と

私は聞く耳を持ってくれない家族の横で、

ひとり実感していた。

 

高いところにいる夢と、

おばけ系が出る夢と、

クモが出る夢が、

私の、不動の三大 ”ゾッとして

全身ミント塗ったスースー感で

夜中に目が覚める”夢シリーズだった。

 

クモに限っては、

こちらに這って来られて

飛び起きる夢シリーズもあった。

 

夢シリーズでいけば、あと2種。

トイレに行きたくなっている状態の時に見る夢は、

どこのトイレに入ろうとしても

掃除中だから他に行ってと言われたり、

あまりにお尻まる見えな困った構造ゆえに

諦めてガマンして出てきたり、

マルセル・デュシャンの「泉」よりわかりやすく

アーティスティックに

大量の柘榴とバナナが和式の便器に溢れていたりして、

結局トイレが使えない夢。

 

あと、気が休まらないままで

うとうとしてしまっている瞬間に見る夢は、

母親に怒鳴り散らかされていた

実家の場面を切り取った夢。

 

三大夢シリーズは、

ほんとうに定期的に、頻繁に見ていたけれど

ここ数年見ていないから、

多少の精神面の安定も影響してくれているのだろう、

とは思っている。

 

でも、夢に出るほど怖がり続けていたのは

そもそも現実生活の中で実際に

その姿を見続ける環境にあったからで、

それはもう、祟りのようだった。

 

実家は大正の頃からの

土壁の大きな建物で、思い出したくもないが

毎晩、早く寝てしまうばあちゃんが

さっさと電気を消してしまった後、

真っ暗な区画の先にあるトイレまで行くのが

冗談でなく本気で恐怖だった。

 

壁をバンバン叩き、ドンドンと足を踏み鳴らして

もし暗闇の中にいるのならせめて

見えないうちに逃げていってほしい、と

わざわざやたらと振動を与えながら

やっとトイレがある区画のスイッチまでたどり着いて、

電気をつけると同時に、その辺にいられても困るので

一目散に走って元いた明るいところまで戻る。

 

それから、電灯が瞬いて明るくなった

トイレのある区画にまた進みつつ

今度は視野をできるだけ狭めて、

せめてトイレのドアまでの最短コース上に

その姿が無いかどうかだけを、おそるおそる確認する。

 

トイレのドアまでたどり着いてその横にあるスイッチをつけたら

またわざと音を立てて、

中にいるかもしれない相手をびびらせてから、

少しずつドアを開け、焦点が合わないよう意識的に

周辺視野を使って、トイレ内部に

黒っぽい影が無いかどうかを確認しなければならなかった。

これが、クモの出る時期には毎晩である。

 

電気をつけたトイレ内部にそれがいた日には、

ぎょっとして、また家族がいるところまで

ダッシュで引き返し、

母について来てもらえるよう

懇願しなければならなかったが、

それは、本気で数回断られ、うとましがられる

とわかっていながら、毎回、観念して始めるしかないことだった。

 

眉間に皺を寄せられ、ため息をつかれながら、

クモは何もせんて、と繰り返され、

クモよりあんたの方が大きい、

むこうの方があんたのことをよっぽど怖がってるのに、と

そんな百も二百も承知の理屈が

一通り済むまで聞いて、

しゃーしか(めんどくさい、うるさい)と

吐き捨てられ、

それでも諦めず食い下がって、

やっと立ち上がってもらい、

トイレまで行って追い払ってもらって、

やっと、

おしっこができるのだった。

 

私は、決して大袈裟にではなく、

今の快適なマンションの部屋で

夜、行きたい時にトイレに行けるのが

毎日心から幸せで、嬉しい。

 

大学に通っていた頃に

建物が古すぎて、とうとう建て直すことになったが

建ったばかりの新しい家の中にも

親が扉を開け放していたばっかりに

特大のがすぐ入ってきてしまって、

それが動き出す日暮れよりも前に、

私は自分の部屋に引きこもっておくしかなかった。

 

やっと就職できて、一人暮らしできる

快適な普通のマンションに移れたと思ったら、

やがてすぐ、職場の建物の中に

大きいのが出るとわかった。

 

イヤな季節に、夜暗くなるまで

仕事をしてしまった日には、

大変なことになっていた。

 

帰ろうとまっ暗な階段や廊下の電気をつけた途端、

大人2人が普通にすれ違える程度の幅の

通路のど真ん中に、びろっ、といる。

そこを通らなければ出口まで行けない。

走ろうとして恐怖で足が絡んで、

バタッと倒れたこともあった。

 

進路を塞がれた感じで両者動かず、

じっとり汗をかいてどうにもできず、

また周辺視野だけで確認して

黒いものが血迷って

こちら方面に動くことがないようにだけ注意しつつ、

立ち尽くしてしまっていたこともあった。

 

あの時には、そのちょっと後に

同じ階段を降りて来た同僚が、

変なところでポツンと立ち尽くす私に呆れつつ、

一緒に歩いて出てくれた。

あのありがたさは今も思い出す。

 

現代の、べつに南国でもない

フツーの都市にあって、

この、生まれてから数十年間途切れることなく続く

クモの恐怖は、何の呪いだ、と

本気で自分の半生を呪い続けた。

 

催眠療法をわざわざ東京まで受けに行ったこともあったし、

アカシックリーディングをしてもらうことがある時には

何度も、その呪いについて尋ねていた。

 

そのたびに、いろんな理由はつけてくれるが

全て、そう言われても、という程度で、

私の中の根本的な解決にはつながらなかった。

それはそれ、これはこれ。という感じ。

 

あなたは自分の手足が長いから、

手足の長いクモがイヤなのだ、

自分を好きになればクモのことも怖くなくなる、

というリーディングもあった。

それはそれ、これはこれ。

 

もう職場では、クモの元気な時期、時間帯には

決して建物の中には居ないということを

どんな手間より、どんな条件よりも

徹底して優先しているし、

自分がいる部屋中の隙間を埋めるやら

クモ避けアロマスプレーふるやら

オイル焚くやら

無駄だと笑われる努力もし続けているので、

まぁ最近は大きいのに出くわしてはいないけれど、

あれが嫌いだという感覚は、

もうそれが私なのだ、と言えるほどに

自分の性質の一部として

ずっと持っているままだった。

 

 

そしてつい最近。

人生をいろいろと生きやすく改善していくための

意識、エネルギーの整理というか、ワークをしたりして

自分の内側を整える時間を過ごしていた時・・・。

 

自分のエゴ、

エゴとは肉体に属するものであるので、

生き延びようとするエゴとは

切っても切り離せない「恐れ」について、

考えてみる機会があった。

 

エゴや生存にも通じる第1チャクラに

つながるアロマを嗅ぎながら、

「怖いと感じたことのある瞬間のこと」を思い浮かべる。

私にとってはやはり、

数十年間積み重ねてきた

クモと出くわす瞬間の数々。

 

頻繁に体験していた、恐怖のあの瞬間。

その時の身体感覚。

 

心臓が、ギュンッ!と

鉄の両手で握り潰されるように締め付けられる。

必ず同時に、情けない小さい声が漏れている。

全身が冷え、同時に汗もかいている。

小さい呼吸。

容易には助けてもらえない絶望感。

自分を罵るとわかっている相手にすら

全面的に平伏してまで懇願せざるを得ない状況。

 

それは、絶望的な孤独感だった。

 

もし私が、ねーねーついてきてよ、と

日課のように毎晩ねだっては

優しくトイレにつきあってくれるような

甘えて頼れる家族の誰かがいたら、どうだったか。

 

きゃー、もーまた出たよー、

あららー、また出てきとるねー、ハイハイ

 

と、私が怖がることが、

あそこまで疎ましがられず、

父からも母からも弟からも

当てつけのようなため息をつかれて

居場所をなくすこともなく、

あーもーしょーがないねーと笑って

済ませてもらえていたら、どうだったか。

 

後々思い出した時にはむしろ

家族に甘えていられた場面として

懐かしめるような時間だったとしたならば。

 

もしそんな「もしも」の方を通ってきていたとしたなら、

私のクモ嫌いに、

あそこまでの身体感覚は伴っていなかったのではないか。

あの身体感覚は、絶望的孤独感だ。

 

そうだったのだ。

私は、あのムシの存在自体に

あそこまで怯えていたのでは多分ない。

 

私に呪いとして付きまとっていたのは、

クモではなく、

孤独感だった。

 

中学生にはまだなっていなかった頃だったか、

ある夜、嫌がられるとわかっていつつ

いつものように母に、

「またお便所にクモがおるけん、ついてきて」

とお願いした時、

その時は、座っていた母の左側から、

目を上げないままで言ったのだったが、

母も顔を上げないままで

もう、しゃーしか、ひとりで行って来なさい、と

いつものセリフを繰り返しつつ、

「あんた、小さい時の方が怖がり方が少なかったとに」

と言ったのを覚えている。

実際、その自覚もあった。

 

私はその頃からもう

絶望的孤独感を

あの形状の生き物に上塗りし、

ひとりで恐怖を肥大化させていたのだ。

 

絶望的孤独感ゆえの嫌悪感を、

その姿ゆえの嫌悪感とすり替えてしまい、

すり替えたままに

その絶望的孤独感の形を忌み嫌い、

追い払うこともできないほどに

怯えて拒絶し、

呪い続けていたのだった。

 

はっきり気づいて、

これまで費やした時間すべてに

涙した。

 

 

目を閉じて、

あの土壁の家ごと、すべてを解体しよう。

 

解体したハシからすべて、

私の放つ金色の光の下に晒そう。

 

台風が屋根瓦を捲って舞いあげるように、

父も母も弟もばあちゃんたちも、

ガラス窓も湿った縁の下の柱も土壁も暗く長い廊下も、

戸棚も布団も下駄箱も錆びた自転車も

お便所もクモもおひな様も、

日記もアルバムも絶望も諦めも。

影ができないほどの光を当てて

照らしつくして、解体してしまえ。

 

それらはすべて

キラキラと、パラパラと

互いから剥がれ合い、

あっけなく

ピンクパールのカケラとなって舞い上がり

それぞれがあるべき宇宙に還る。

還す。

還そう。

 

静電気で吸い付けられた毛髪のように

互いに不愉快に結びついた因果を

今、私がほどいて溶かすと決めた。

 

決めたので、もう溶けた。

ほどけた。

還った。

 

幼い私は、私の元へ。

おいで。おかえり。

クモがイヤだと言っただけの

幼い私は、愛らしい。

誰の邪魔でもない。

ただ愛らしい。