アニマルコミュニケーション 17(おらくの10月)

〜その後の記録〜

【9月のおらく】はこちら。

 

【おらくの10月】

おらくは日差しを自分から浴びに行くようになった。

<7日(金)の光>

 対話から1ヶ月あまり。対話の時には、「今は酸素ケースの中が好きだから、ベランダに出たり光に当たったりするのは別にいい」と答えていたけれど。

 

 ほんとうに気持ちよさそうに、ゆっくりとできる範囲で光を吸い込んで、太陽色のおらくが太陽色にとろける。なんて穏やかな、幸せな時間。ありがとうございます、何もかも。

 

 いつぶりだろう、私は9日(日)に、リクオのピアノ弾き語りライブを聴きに出かけた。

 ほんとに、私が歌を聴きに行くなんて何年ぶりのことになってしまったのか、思い出せもしない、その鬱々とした月日を終わらせる決意のようなものも抱いて、けれど純粋に楽しむために出かけた雨の夜。

 

 私の中にもまだ弾いて歌いたい衝動は残っている。軽い気持ちで、当たり前すぎることをやっと確認できた。

 それぞれの肉体の内側の響きは、それぞれがある種の責任をもって、外に向けて響かせなければ。穏やかに呼吸するように。

 

 翌10日(祝)は朝からまた光が戻った。穏やかです。穏やか。穏やか。穏やかでした。

穏やかな光の中で、ふたり揃ってくれてありがとう。

 

 揃う、揃わないなんて、猫たちには関係のない、こっちの勝手な基準だけれど、それでも私の目の前でふたり揃ってくれて、ほんとにありがとう。

 

<二人揃って、雨上がりのベランダへ。>

 おらくのこと、好きかなどうかな、まぁまぁ。と答えたふるむ。でもやっぱり、おらくが行くところに行くふるむ。

 そしてまたふるむに「しゃー!」と言うツンデレぶりを見せるおらく。つよいお姉ちゃんに、おっとりした弟だ。

 ありがとうありがとうありがとう。

 

11日(火)ありがとう。

 

12日(水)ありがとう。

 

 私は13日(木)、14日(金)と続けてほとんど座る暇もないほどの勢いで、部屋の中もベランダも掃除しまくり、片付けまくった。

 自分を押さえつけていた自分の薄皮を剥きながら、動きを少しずつ軽くして、溜まっていたオリのような食器類もほとんど処分した。

 

 この週で特に、落陽楼の中の「気」が入れ替わったと思う。どこか部屋の中が広々としてきて、風が回り始めた。

 

 15日(土)、私はほんとうに久々に、ピアノの前に座った。たまにピアノに向かっても、邪気にあたったように体がだるくなって、眠気に襲われる。実はこの日もそうだった。いつからか、もう長いこと、ピアノの前に素直に座ることが、嫌になっていた。

 この日もすぐにぐったりして、ピアノの近くでしゃがみ込んで、そのまま横になって、おらくから見えない角度の床で寝てしまっていた。

 

 16日(日)、根強く染み付いていた古い空気に、床まで引き摺り下ろされたのだと、はっきり自覚した私は、朝からピアノの周りで今までよりしっかりホワイトセージを焚いた。決意をもって焚いて清めた。

 誰にもわからない、無限のように感じられていたピアノとの距離。それが抜けたと思うな。

 

 この日、長いことピアノの前に座っていられた。好き勝手に楽しく弾いた。音を出す自分の指の動きを新鮮に味わった。

 新しい歌が湧いてきた。雨上がりの光の歌。嬉しくなって、おらくのそばに戻ってから、続きを考えた。

 

<16日(日)のおらく>

<ほら、光みたい。しばらくつらそうだったおらくが、またここまで出てきてくれた。ありがとう。>

 

 おらくは16日(日)、缶詰をお皿にあけると、少しずつ、でもガフガフと食べていたけれど、うまく飲み込めず、咳き込んでしまった。

 もっと高さと安定感がある皿にした方が食べやすいだろうと、いかにも猫ちゃん用の皿を通販で頼んで、なんと便利な世の中であることか、当日のうちにすぐに届けてもらえたのだけれど、もう固形物を食べようとはしなくなった。

 でもヨーグルトは変わらず元気にピチャピチャと舐め続ける。

 

 17日(月)、気のせいだと思うようにして、でも少し気になっていたのは、目が少しだけ濁ってきたように見えていたこと。

 それに、ヨーグルトの表面に少しずつ顔を近づけていって、実際に口元がびちゃっとつくことで距離感を確認しているように見えていたこと。

 どこまで見えているのやら。どこまで匂いを感じているのやら。

 

 食べ終わった後に猫らしく口元をむにゃ〜っと舌で舐め回すことをしなくなってきていて、飲み込みきれないヨーグルトの白いよだれが口の周りにいっぱい残るようになって、ほんの2〜3日のうちに、私が頻繁に拭き取ってやるようになった。前にもまして増えてきていた鼻ダレの量が、すこし減ってきたようにも感じた。

 9月、10月には便秘に苦しんで、それでも克服して自力でうんちできるようにもなっていたけれど、この数日間はうんちをしていないだけでなく、ときどき、おしっこの出づらさも感じられた。

 

 18日(火)、午後、トイレをしようとする体勢ではないのだけれど、暗いトイレの砂の上でじっとしている。

 夜にはトイレに立てなくなった。おしっこが漏れた。そのすぐ後にも、歩けないのにトイレの方に行こうとする。何度も。

 暗いところに、静かに身を隠せるところに、行きたかったのだろうと思う。

 

 日付が変わって19日(水)になっても仕事の準備をわざとのようになんとなくダラダラと続けながら、私はずっと起きていたけれど、それがいいのかどうかはわからなかった。

 なんとなく、今夜は下弦の月だな、と思った。

 元気な頃のおらくはほんとうに、下弦の月の頃になると、夜、落ち着きがなくなり、鳴きながら興奮状態で走り回ることが多かった。まるで月に呼ばれているから行かなくちゃ、とでも言うように、決まってそわそわと外に出たがった。騒がしいかぐや姫のように。明らかに下弦の月に反応する猫だった。

 

 週の中ごろに大きな掃除をしてから数日間は、気分を換えて、おらくのすぐそばに寝ていたふとんの向きを、少しだけ変えていた。

 でもこの夜は、またおらくと並んで寝るくらいに、以前よりさらに近づけて布団を敷いた。布団に斜めに寝そべってケースに顔を近づけて、どちらも横になってるものどうし、すごい間近でおらくとただ見つめ合っていた。

 19日(水)は朝にはオンラインで授業、午後には教室での授業のため出かけなければならず、この状態ではトイレもできないから大変だなと思った。

 木曜に入っている個人的な予定は延期しておく方がいいかな、とも思った。

 延期の連絡をするなら、朝になってすぐがいい。なんとなくそういう時には、軽く意見を合わせておく、といった感覚で、カードに尋ねてみることが多い。

 朝5時頃、ふとんの上でカードをシャッフルした。意図せず2枚飛び出た。

 予定の延期は「心配しなくていい」。それから、「もうすぐ」だと。

 

 5時半頃か6時近くまでは、日記をつけたりして起きていた記憶はある。心配だしずっと起きていようかな、などと思っていたにもかかわらず、授業開始に間に合わすために逆算してギリギリの2時間半ぐらい、寝てしまっていた。

 寝ぼけて立っていって、トイレから出てゆっくり顔を洗って、戻って、布団のすぐ隣のケースの中でいつものように横たわっているおらくを見た。いつも表情の次に目をやるのは、かすかに動いていることを確認するためのお腹。

 

 もう動いていなかった。

 

 黙って頭と体を撫でた。体は、もう固くなり始めていた。開けたままの目も口も、もう閉められない。まだ手足の関節はやわらかかった。

 ね。あの時。夜中、何度も暗いところに行こうとしていた、あの時。

 おらくに言われていたのに、悪い癖が出て、私がつきっきりになってしまっていたから、いつまでも寝ないから、逝くタイミングを逸してしまっていたのかもしれない。

 さちがやっと寝たから、やれやれ、やっとひとりになれて、もう明るくなってしまった落陽楼の中の、ケースの中で、やっと肉体を脱ぐことができたんだね。

 もう自由に動けるね。苦しくもない。おらく、深く深く、どうぞ胸いっぱいに、どうぞ深呼吸を。

 

 おらくは、落陽楼の主なのに、どうしよう、これから。

 コツコツにやせこけた美しいおらくの頭とお腹をもう何度かずつ撫でてから、1分遅れてしまってすみませんと挨拶して、オンライン授業を始めた。