年賀状心理

毎年、ぐるぐる考えが巡ってしまうのが、

年賀状なのよね。

 

でも、今年はずいぶん感覚が変わった。

重い囚われが無くなったっチューかね。ネズミどしだけに。おいおい。

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鏡餅に寄って来たのは、鹿。いや、インパラ?

 

【年賀状を出すということ】

まえは、年賀状はしっかり書いていたし、

暑中お見舞いも出していたもんだ。

 

ある意味、社会の中で当たり前のことだという認識で

大した疑いも無く続けていたわけだけれども、

私には、そうやって

季節の節目に知ってる人たちに挨拶することで気分も改まるし、

そのたびにデザインを考えることは、

やりがいのあることでもあった。

 

でもいつからか、よく言われることだけれど

年賀状といえば「印刷物」になってしまって、

私は年の初めに、いったい何を受け取ってるのか?

という疑問が湧くようになって久しい。

 

正月にまず抱く感情が「虚しさ」というのは、

ほんと、良くない。すごく困っていた。

 

なんでここまで虚しかったのか。

 

 

【正月一発目はいつも、ふてくされ。世間への。】

私は毎年手作りで一枚一枚仕上げ、

ヘタなりに墨をすって筆で

宛名や自分の住所氏名を書くなどし、

また

一人一人と話しをする気持ちでの文章も添えていた。

当然、一人一人に書くことは異なる。

私には、「当たり前のこと」であった。

 

それなのに、

受け取るのは、自家製大量生産の印刷物。

 

そう。

「それなのに」なのだ。

 

アンバランスが嫌なのだ。

きっと、与えた分、欲しかった、的な感情なのだ。

寂しいコ ((((;゚Д゚)))))))

 

私は、「あなた」への時間を形にして

この一枚を仕上げているという ”のに”。

 

それなのに。

 

あなたから送られてくるのは、

年に一度、プリンタから大量に吐き出され、

束ねて枚数だけ数えられたうちの一枚かよ。

 

そう見えてしまっていた、寂しいコ ((((;゚Д゚)))))))

 

ウザいだろうなぁそういうこだわり感が。無い人には。

 

いや、だから、出してるぢゃないか、ちゃんと君にも。

ってなるよな。

 

わたしは、

定型挨拶文と、梅か鶴の挿絵みたいなやつの印刷物が、イヤです。

どこのサルの子ともわからぬ赤ん坊の顔写真が、イヤです。

私の名前の漢字が指摘後も訂正されないままの宛名の明朝体は、もっとイヤでーす。

 

イヤだと思って見るから、

「お元気ですか〜?」とかいうペン字の一言もイヤだった。

走り書きのような。

どんだけ忙しいんだよ、ってなる。

どんだけ枚数書いてんだよ、アイドルのサイン会並みかよ、ってなる。

正月早々。

だから何なんだよこの束。

ってなるのだった。

 

せめてもの精神面のバランスのため、自分からは出さなくなった。

夏と冬、デザイン考える時間、作業の時間、

確かにヒト労働少なくなった。

あとは、しかたなく、送って来てくれた人にだけ

片手で済ます程度の返事を出す、という、雑務感。

良くない。

気持ちが。

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お雑煮の前に、実は不愉快でした。毎年。良くない。

 

 

【少数精鋭の ”気持ち” たち】

今年ももらった分にだけ返事を出した。

元旦に初詣から帰ったついでにポストを見ると、

あーやっぱ来てるかー、

返事出すかなー、やめとくかなー。

  

ここが、毎年揺れる

意図的 ”ふてくされ” と、

季節の挨拶をホントはやりたくてやってた感覚との、

ハザマでの悩みどころ。

 

こっちが出すか出さんかは期待せずに送って来てくれてる人たちに対して、

もー私出さんから、って今さら宣言するのも

また逆に面倒だし、出しとくかー、ってなる。

 

 ここ数年、

こっちから出さないって態度になってからは、

仕事関係のヒトたちなんかからは

だいぶ来る枚数も減った。万歳。

 

ほかにも、

何度目かにド強調して宛名の漢字訂正を求めたヒトも

やがて送ってこなくなった。

 

我が子の写真バージョンをただ送って来つづける態度に対して

「あなた自身の近況がわかるといいなぁ」と

たった一度だけ伝えた後輩も、

翌年から送ってこなくなった。

 

印刷文章の横に更に、キチーッとしたご挨拶文のみを

カチーッと書いて、ほとんど二重の定型挨拶文にして

送って来つづける同級生にも

同じことを書いて返事を送っていたら、

やっぱり送ってこなくなった。

 

万々歳。

おーいその人たちよ、その、私へ向けてくれていた

労力と切手代とハガキ代を、

どうぞ動物愛護とかに使っておくれ。

 

 

しかし、だからこそ、である。

いろいろ精神状態が変わって来ている渦中の

今だからなのだろう、

急に、ふと感じた。

 

今だに毎年送ってきてくれる人たちって、

もはや少数精鋭。

元旦にこちらからの挨拶が届くことなんて期待もせず

送り続けて来てくださる行動というのは、

気持ち以外の何ものでもないよなぁ。

 

おお。

感覚というのは、変わるものだ。

 

いつもの感じで、利き手じゃないほうの片手で

スタンプ押せば済むぐらいのもんを

10枚程度書き終えて、

投函しに行きながら

なんかすごーく、そう感じた。

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ドアに覆いかぶさる勢いで年神を誘い込む

意気込みの半端なさ 。

これで、硬かった心が とうとう打ち砕かれたのかもしれぬ。

 

【あんた、そげんアイスばっかり食べよるとね】

定型文を使って、いいじゃないか。

メールだって、定型文が自動で選べるようにすらなってきている。

そんなもんだよ、顔知ってる相手への挨拶なんてフツー。

 

言葉を選び、並べることに、

時間をかけたい人ばかりではない。

そのデザインに決めて仕上がるまでに

人それぞれがどれだけ時間をかけたかなんて、実際わからない。

 

私は、偉そうだけど意気込み的には

まるで宣伝広告の制作プロジェクトのように、

総合的に言葉とデザインを考え、

文字と絵について思いを巡らすのが好きだった、

ただそれだけだ。

 

自分がかけた手間ヒマと

おんなじように見える表面こそが

自分と同じ熱量を持つ愛情なのだと、

どうしても深いところで

無意識に思い込んで、

形式を欲しがっていたのは、

他ならぬオレの承認欲求だ ((((;゚Д゚)))))))

 

寂しいコ ((((;゚Д゚)))))))

 

よしよし。

 

 

((((;゚Д゚)))))))

 

 

赤ん坊の顔を見せたい人は、ただ見せたいのだ。

今しあわせなんだろう、なぁ、いーじゃないか。

 

コンビニや郵便局で売られているだけの

ヒトとカブるかもしれない印刷物を送って

自分を表現しようとするのは、むしろ、

こだわりのない潔い姿勢だ。そだろ?

 

それに、定型挨拶文なんて

今に始まったことじゃない。

 

ふと思い出した。 

小学校の始め頃、互いに暑中お見舞いを送りあっていたけれど

同級生からのものにはどれも、その頃の定型的な

「アイス食べ過ぎないようにね」

とかいう一言が書いてあった。

 

それを見たばあちゃんが

「あら・・・みーんな、おんなじことの書いちゃあ(書いてある)が、

あんた、そげんアイスばっかり食べよるとね?!」

と、心配してたもんだ。

 

そんなもんだ。

 

それに、言葉は、言霊持ってるからな。

 

身に覚えは無くとも、

旧年中は、ほんとにどっかでお世話してたのかもしれんしよ。

今年も変わらぬご指導とご鞭撻を、さしあげることになっていくのかもしれんしよ。

ご健勝を祈ってもらっとくに越したこたぁ無いしよ。

 

それでいいんだよ。

それでいくよ。

今度から、また一年わたしの魂の体験につきあっていただけた感謝を込めて、

少数精鋭の方々のもとへ

元旦につくように年賀状に取り組むあたくしに、なる。

ほぼ一年後への決意。

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(博多の総鎮守:櫛田神社

嗚呼、清々し。晴れやかな元旦でした。

元旦だけでなく、これからもまた

一つ一つ決意を積み重ねてゆくのさ。

 

今年の年賀状も、利き手じゃない片手の使用率9割。

心改める境目の正月。

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今年の思いつきは、

昔彫ったゴム版の「迎春」と

一昨年ハワイで買ったトカゲちゃんスタンプ。