ゆーりっぷちゅ

 チューリップ柄のスカーフを持っていた。とても幼い頃、幼稚園ぐらいか。

 持て余すほどに大きく感じた四角い布はつるりとしていて、2、3センチほどのオレンジの縁の中に、濃い色の絵の具をぼってり塗った筆のタッチで、びっしりと描かれたチューリップが咲いていた。他の花もあったのかもしれないけれど、もう覚えていない。

 それを襟元にどう巻いていたのか、巻いてもらっていたのか、あまり記憶に無いからきっと重要なことではなかったのだろう。むしろ、深い色合いの絵が大きな一面に描かれた布地という姿はしっかりと記憶に残っているから、広げて眺めることの方が多かったのかもしれない。今も一面に絵が描かれたような広い布地を見かけると、腰に巻くかシーツ代わりに布団に敷くか壁にかけるかという用途は後で考えるとしてつい買ってしまう「布好き」の自分の、原点の行為だったのかもしれない。

 

 とても幼い頃、「家出」という言葉を覚えてすぐのある日、「もう、いえでする!」と宣言した。テレビの近くで、両足で立っている姿だったと思う。何かとにかく、私は本気でプンプン怒っていて、両親は、そうか家出するのか、あははと笑っていた。

 うちは戦前からの旅館を簡易的にアパートに仕立て直したとても古い建物で、両親と弟と4人で暮らしている場所から廊下側に出ると、アパートの人たちのドアの前や共同の流しなどがあって、そこを通り過ぎて、さらに暗くて長い廊下を進んで曲がっていった先が、私のばあちゃんが暮らしている部屋だった。私はいつもばあちゃんのところで遊んでいた。私は、ばあちゃんのところに家出する、と宣言した。

 私は決意のもと、チューリップ柄のスカーフを風呂敷にして畳の上に広げて、タンスの自分の引き出しから着替えの服を何枚か畳んで、対角線上に置いた。一番上には、いちばん好きなピンク色の毛糸のベスト(「チョッキ」だな・・・)のような、袖なし前開きのセーターを置いた。前に並んでいるコロンと丸いボタンもピンク色だった。

 向かい合った角と角を結んでパンパンに四角くなったスカーフの包みを抱いて、親が見守る中、私はプンプンしたまま、ばあちゃんの部屋に家出した。

 

 その先は覚えていない。親もばあちゃんも笑っていたし、それは、おそらくは、ただの微笑ましい光景の一つとしての笑い話だったのだろう。数ある不愉快な記憶の中、その「家出」に関してはそれ以降の嫌な記憶も無いから、きっと暖かく包まれて終わった出来事だったのだと思う。

 

 ここで多分、こういう話は、思い起こせば愛されていたんだ的な?いつの日も一人ではなかった山口百恵秋桜』的な?子供の感情の方が常に浅はかで、親の愛の方が広くて深い的な?必殺、親になればわかる的な?まとめ方に収束していくから、「自分」の感情の方は不完全さゆえだったと気づくのがオトナだという予定調和の中での「良い話」への道筋ができ、「自分」というものが雲散霧消してしまうのだ。

 なぜか今朝、急にこの場面が久しぶりに思い出され、考えた。これをただの微笑ましい光景として終わらすのは、幼い私にとって失礼などころか、私自身にとってはあっちとこっちのパラレルワールドほどに話が違ってくる。

 たしかに私の両親は、社会的な極悪人でもなんでもなかった。だからこそ、それは逆に、いわゆる一般的な社会基準の中で善良に生きようとする、その善良さをわかろうとしない子供が社会的に不完全なのだという、世代を超えた負のサイクルを引き継がせてしまう集団的な罪を、無自覚に作り続ける人たちの一員であった。

 私は今も多くの人がそうであるように、その負のサイクルの中に結局は引き摺り込まれていたため、親が愛情を持って接してくれていたことを認めなければならない、と自分に言い聞かせようとばかりして、ずっと苦しいままでいた。

 それは、あの私の本気のプンプンした怒りが、認められていなかったからだ。怒りの感情はすでにあの幼い私の中に明確に存在していたのだということ、あんなに真剣に怒るほどに、逃げ場のない幼い私は、まだおぼつかない言葉の限りを駆使しながら、しっかり一人で考えようとしていたのだということを、オトナにとっての不完全な子供の感覚が引き起こした不完全な態度として私自身までが、なんとひどいことに、今までずっと、ぬぐい去ろうとしていた。

 あの時の確かにあった自分の感情を、いま自分で認める。

 ああやって怒りはうやむやに押しやられて流されているうち、掃き溜めにたまってゆく。成長の中で言葉を身につけ、時々その感情に至るプロセスから伝えて分かってもらおうと言葉を使うたびに、その言葉の持つ論理性は大人たちがなあなあで笑って眺めていられる許容範囲を超え、脅威となってしまい、お前は理屈ばかりで人間ができていない、と歪んだ角度から押さえつけられるようになり、親戚や外の人に向かって私の存在を嘆かれるようにまでなっていった。

 私は私で、ああまたか、とその言動の動機が見えてしまうから、もう言葉にもしなくなる。ただ諦める。いつからか私は、自分の人生自体が、諦めを感じる場所のように感じ続けていた。

 

 あのスカーフで家出した私の感情の出し方こそ、今の私が思い出すべき行動だ。

 イヤだからイヤだと言う。イヤだと感じた瞬間に、全身で怒った。そしてすぐ行動に移した。その件に関してその後のことを覚えていないのは、それなりにもうそこでスッキリしたからだ。

 家出した私は、何歳だったのだろう。4、5歳かな。自分にまとわりつくイヤな音としてサッちゃんと呼ばれていた長い時間は、まだ始まったばかりの頃。数少ない言葉で、意思疎通もままならない中よくがんばっていた。

 これからのわたくしの、行動指針とさせていただきます。

 あの感情を一人の人格から湧き出たものとしてまず認める。そうしたら、それを深刻なことと捉えることはできないまま流し続けた私の親の役割が、不完全な人間の愛すべき不完全な行為の一つとして見えてきた。

 そう。相手を認めなければ、と言い聞かすより、まず自分を認める。そうすれば、相手を認める意識は、その自然な副産物として降りて来るのだな。