その3 「食べる」の意味素性

断食4日目のヨユーから、

前日までのアシドーシス中の思考を整理しているシリーズその3。

 

初日に頭をチラッとよぎったのは

気分を変えたいための嗜好品であったこと、

2、3日目には状況が変わったこともあってそれは無かったこと、

は書いた。

 

あと、2、3日目にほんの時々チラッと

よぎったもののことから、少し考えてみる。

 

まずは、食べ物自体の「チラッ」。

食べたいものが浮かんだ、という感じよりも、

うーん、そうねぇ、細かく言うと、

 

パンを噛む瞬間の奥歯と歯茎のあたりの感覚とか。

ナッツを噛んだ瞬間の食感と、広がる香ばしさとか。

 

そして、それに憧れる感じ。

ぅわぁ、いいなぁ〜、噛めるって、と。

 

そう。そうなのです。

 

胃を満たしたいという欲求よりも、だな・・・

・・・・「噛みたい」んだよな。

これはほんとに、初日から

意識的に浮かんでくる感覚でもあった。 

 

 註:断食中に我慢できなくなった時の対処法も

    いくつか教えてもらっていて、

    その中には「生姜のスライスを噛む」(もちろん、 

    繊維はぺっと捨てますよ)というのもあるから

    スライスを持ち歩いてはいたのだけれど、

    まだ「限界」が来るまでとっとけるぜ、と思って、

    どれにも着手してはいない。

 

噛みたい!なんて今まで思ったこともない感覚。

そうねー、「感覚」なのよね。

カラダの一部が激しく感じたがっている。

 

やはり、カラダでこそ感じることのできる感覚を、

この地球生まれのカラダを持つ私たちは

しっかり楽しんでいるのだな。

 

これもまた、しみじみと感じたことの一つ。

ただ栄養分をとるためにサプリメントを飲めばいい

というわけではないのだ。

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《ワシも、噛みたいんやー!》

 

f:id:Sachi_de_Saint_Phalle:20190827193624j:plain《これも、噛んでいる。》

 

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《噛みたいんやー!・・・そして↓ 》

 

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《噛まれたやつは、→→→→→こうなりますんやー!》

 

 

あと、私はふだんから、水をあまり飲むタイプではない。

だから、朝、昼、晩の青汁(ジュースの人もいる)の他に

1.5〜2リットルを目安とされる水を飲みきるのは、

かなり大変で、ずっと胃の膨満感を抱えていた。

正直、標準量は飲めない日もあった。

 

思うに、きっと、口にしているものが

味が単調すぎる青汁と水だけによるものだから

膨満感の辛さも倍増・・・していた

というところもあったのではないか。

 

多分、口で「うまい!」と感じたり、

皆で食べて楽しい!と盛り上がったりして、

そのおかげでつい食べ過ぎちゃった、とーかいう状態とは

ぜんっぜん違うんだな。

 

もう一つの「チラッ」は、

きっとその「楽しむ」に関わるところで、

妙に、居酒屋とか、自宅の食卓とかの、

食べる場所やお皿が並んだ景色が、よぎっていた。

 

出張中は特に、今カフェに入れたらいいけどなー

と思うタイミングもあった。

そう思って見回すと、街の多くはマジ飲食店。

 

慣れない街の、飲食店だらけのビル街を見回しながら、

人は楽しむための場所をいっぱい作ってきたなぁ、とか、

それって、アリの巣が巨大な地下建築物みたいになっているように

宇宙の上の方から見てもきっと面白い営みなんだろうなぁ、とか、

私はふだんそういうありがたいところで楽しめてるんだなぁ、

と、ふだんの生活や、人間の営む社会を

なんか新たな角度から見直すことができた。

 

 

「食べる」という行為は、最低限でも

歯で噛んで、

舌で味わって、

 カラダが栄養を吸収する、

という総合的な歓びのことなのだね。

決して「食欲を満たす」と同義ではない。

 

なんだか無性に、意味素性で書きたい。

 [食べる]=[噛む]+[味わう]+[消化・吸収する]

 

この第一義的な意味に加えて、

人の生活の中では、

 [食べる]=[([見る]+[噛む]+[味わう]+[消化・吸収する])を共有する]

という重要な意味で用いている場合もある

ということだな。

 

「まず目で楽しんで、

歓びを誰かと共有できる」

なんて、マジPERFECT!だな。

カラダを持つ人間として。

(食べる量には、気をつけましょうね)

 

 

もうだいぶ前のことだけれど、

噛む力の弱くなった

寝たきりのお年寄りにも噛める料理を

開発した人たちがいる、というニュースがあった。

 

噛めなくなったら、乳幼児の離乳食のような

流動食にしてしまうのが主流だったが、

それでは、寝たきりで楽しみの少ないお年寄りから

「食べる」楽しみまでが奪われてしまう。

 

それで、すべての食材に包丁で細かな切れ目を入れて

形をできるだけ残したまま

口の中ですぐほどけるほど柔らかく煮て、

ふつうの料理と変わらない見た目に仕上げて盛り付ける、

ということを考えた人がいたのだ。

 

人として人を思いやる愛があれば、できる作業だ。

それをいただく人たちがほんとうに楽しげに

口をもぐもぐと動かしている様子も映った。

 

この数日、そのニュースのことをよく思い出すんだよなー。

それを見た時は、そーかー、とぐらいに

思った程度だったのだけれど、

今は、

 

そーよねーー!

カラダに必要な成分だけ与えて

「食べる」っていう総合的な歓びを奪うとか、

考 え ら れ ねー!!

 

と、強く強く、思うのでした。

 

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食物連鎖