形式の力:即位礼正殿の儀〜あるバタバタmorning の回想
今日は即位礼正殿の儀というのが、執り行われていたようですけれども。
同世代のかたが天皇になられると、やはり感慨深い。
日本が戦争に転がり落ちるのを止めることができる天皇であってください。
儀式とかの形式の担う力ってやっぱ、あるんだなー、と
ここのところ、折に触れよく考える。
儀式というほど大袈裟ではないけれど
アファメーションについて考えていたことを
ちょっと思い出した。
・・・アファメーションというのが、ありますね。
自分自身について、肯定的な宣言を繰り返す行為というか。
私たちの発した言葉は、
地球のエーテル体というところに届くのですって。
攻撃的な言葉は、
傷つけてしまうらしい。ひぇ〜
エーテル体って言われても、と思うヒトの方が多いとは思うけど。
私も、最近やや聴き慣れてきた程度で、
まだそんっなにリアルすぎるほどには、リアルなもんでもない。
まぁとにかく、私たちを覆うエネルギーの、層の一つね。
けれど、そういうものとも絡むアファメーションとか儀式とかの
「形式」というものについて、
なんかちょっとリアルなところにたどり着いた、
という話を進めます。
地球のエーテル体かぁ・・・・
相手を殴ったりしてしまっても、肉体だけでなく
エーテル体まで傷ついてしまうそうなのだけれど
それよりも、言葉で傷つけられると
実はエーテル体が元に戻るには、さらに時間がかかるのだとか。
ピンと来ないなりにも、ためしてみるといいのは、ですね、
手のひら(センサーね)を相手に向けて、意識的に近づいていくと
もわっ、と弾力性が出てすこし暖かくなる境界線がある。
それがヒトのエーテル体なのねー。
(ペットでもわかります。もわもわっ、て)
それで、生身の肉体がエーテル体を持つように、
地球には地球のエーテル体があるのですと。
きっと、リアルなもんなんだと思うわ、
”星” 規模でモノを考えたり、動いたりしていれば。
私にとっては、今はまだ言われた通り
そう信じておくしかないところですけれど、
私は、素直にそう信じて、コトを進めるよ。
地球のエーテル体・・・なんか、あんだろうなぁ・・・・
だからつまりは、イヤでも
届いてしまうんだね。
在るんだから、エーテル体が。
そして、発したんだから、声を。
声ですよ、リアルな肉体が、リアルな空気を振動させた、
エネルギーの波。
んだから、朝イチで発する声が
肯定的なエネルギーを発していれば、
当然のこととして
それが地球のエーテル体に届き、
そのエネルギーはまた、私たちを守ってくれもするのでしょう。
私は今、ノウイングでおべんきょしていますけれど、で、
その中にもいくつも、儀式というもんも出て来るんだけれど、
アファメーションというものも、ありますノデス。
(儀式というのがまた、面白いのよね。これはまたいずれ。)
で、スクールでも言われましたのよ。
毎朝、起きて一発目に発する声として、
自分の世界を肯定的な方向へ進める意図を載せて、
アファメーションを唱えてください、と。
(言葉自体は、自分に合うものを
自分で作り上げていけばよいもの。
スクールではいくつか提示してもらったりもしていて、
珍しく私としてはその言葉がそのままハマったので
ずっとそれを使っている)
だから、とにかく、
唱えていたんだよね、毎朝。
そして、それが習慣化した頃に、気がついたことがあるのだ〜。
それは「毎朝起きてすぐ」という、
日常生活の中に位置付けている習慣だからこその成り行き
なのだと思う。
ある朝、起きてすぐからけっこう
バタバタしてしまって、色々時間と闘ってしもーて、
家の人間が出かける時になって
「行って来ます」と言うので、
あ、もうそんな時間だ、とまた
バタバタしながら玄関まで見送りに出て来て
「行ってらっしゃい」と言・・・おうとした
発声の準備に入った喉の状態から瞬間的に
はっ!今から出すのが今日の一発目の声だ!
(やべ、アファメーションしてなかった( ゚д゚) ・・・)
と感じた、その一瞬あとの、
う・・・も、もう、もはや「行ってらっしゃい」の前に
アファメーション唱えてくるから待ってとも言えない、
でもあーあアファメーションじゃない一言で
今日一日を始めることになっちまうのかよ、ちっ
(その心の中の「ちっ」もいけない (゚o゚;; ので、寸止め)
と考えた次の瞬間にとる行動は・・・・?
そう。そのとおり!
「行ってらっしゃい」
と、穏やかに優しく言う
だろー?
それが地球のエーテル体に届いて、自分に戻って来ても、
アファメーションと同じだけの(あるいはそれ以上の)
肯定的な守ってくれるエネルギーを持つ声と言葉であったなら、
問題ないだろー?
問題ないどころか、むしろそれこそが、
日常の中でアファメーションを繰り返すという
形式あってこそ引き起こされる絶大なる効果を持つ、
「形式の持つ力」
なのではないか?
形式のおかげで、そこにエネルギーが生じていて、
それを逸脱してしまいそうになった時には
しっかりとその指針になるというか。
拠り所として戻ってこれるだけのリアリティとも言えるような。
そう気づいてからは、
そうか、すべての瞬間の発声が
すべて穏やかであればよいのだ
と、リアルに実感するようになった。
格段に、何かを悪く言う言葉も、
理屈からでなく
体感として良くないから、使わなくなった。
毎朝アファメーションするという儀式の枠の中にいる安心や満足感にも増して、
日常の中で
その枠から逸脱してしまうことで得られる実感というものにも、
とても価値がある!
いわゆる儀式や、アファメーションなんていう「形式」というのは、
むしろ、それを行おうとする「意図」とか「意味」とかからは
乖離していってしまうものなのでは?と
思わなくもなかったのだけれど。むしろ反対であった。
あー、形式の持つ力って、そゆことでもあるのかもなー、と
けっこうかなりリアルに感じた、
ある日のバタバタモーニングだった。
《追記:即位礼正殿の儀の日に思う》
・・・・しっかし、
「国民に ”寄り添う”」という表現が多用され始めた気がするなー。
平成の天皇さまご譲位の頃から。
天皇さまは、特に今はまだ(なのか?「今はまだ」であってほしい)、
上皇さまが国民に寄り添ったことを長々と述べる時間が、長い。
まーほんとは、「今はまだ」とは言え、
「今」だからこそご自分のことを宣言する場があるわけなのだが、
とにかく、そういう公の場での公の宣言の中で
自分のオリジナルの決意を述べる以上に、
上皇さまを褒め称える尺がやたらと長い
と私は思います。
解説ではそれを「踏襲」で表していたけれども。
だからなおさら、上皇さまが使ってらした「国民に寄り添う」を
耳にする機会が2倍になっとるのかもしれん。
そんなこんなで、
あまりに平易な言葉での儀式というのも、やや照れた。
「君はひとりじゃないから」とかまでは、言わないでほしいです。
なんでも、中継の後の解説によると、
総理大臣の寿詞(よごと)の中の文言が、
前回の平成への代替わりの時の海部総理大臣の使った表現から
ちょっと平易な表現に変更されていたらしい。
平成「最善の努力を尽くすことをお誓い申し上げます」
令和「最善の努力を尽くしてまいります」
それは、 皇位継承式典事務局ってところが、
「内閣総理大臣の『寿詞』は、国民の代表として述べられるもので、それに適した表現にした」
と説明しているのですと。
その事務局ってところが、
どれだけ社会を的確に捉えようとした、
どれだけ語感のある人たちの集まりなのかはわからんけれども、
つまりは、
「お誓い申し上げる」っていう表現を
リアルに理解できる国民が減ってる、とかいうような認識
による変更ということになるのかね。
それは非常に国民をナメた&センスのない見方だし、さらには、
「代表する」って、そういうことではないと
私は思う。
儀式、形式、言葉について考えた一日。
儀を終えて。