写真:過去、厳選、肯定、捨て。

今は、同居解消に向けて、

これまでの10年間を

整理しているところ。

 

写真なんかは、

まず思いつく「捨て」対象だ。

 

ある時期に画像ファイルから

わざわざ選んで

プリントしてみたものの、

紙袋に入れてそのまま・・・

になっていた写真が

札束のように

けっこうな枚数あった。

 

大きな断捨離をするにあたり、

写真=思い出=捨てろ!

という、定番の

お別れ方程式によって

あ〜棚がスッキリするわぃ、

と、

部屋中のゴミ回収態勢で

左手に構えていた

45リットルのゴミ袋に

紙袋ごとつかんで、

捨てかけた。

 

けど。

 

いつまで繰り返すんだろう。

 

と思った。

私は、こういうことを。

何かあるたびに。

 

前に進むために

切り捨ててゆく必要もあるけれど、

そして、実際に物体を

ゴミ箱にバン!と投げ入れる行為で

きっと、脳にも

はい、過去、捨てました!

と言い聞かせる

利点もあるとは思うけれど、

いったい、過去は、どこまで

えぐり取れば済むのだろうか。

 

ガンの再発を恐れるかのように

これからの自分のために

やたらと用心しながら

境界線を極めようとするほど

ナイフは自分の内側まで削り取る。

 

それで、ほんの少し

考え直した。

「全捨て」はやめてみよう。

 

時を楽しんだ自分の姿だけは

肯定する。

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厳選もせず写真すべてを

バッサリ捨ててしまったら、

この年月、ただ

失敗を繰り返しただけだったような

気分だけ

残ってしまう。

 

楽しませていただいた時間を

ありがたく眺めればよい。

 

積み重ねた時間の中で

感謝できる場面を

意識の前面に並べて

捉え直すことができるツールだ、

写真とは。

 

 

最近、2日連続で虹を見た。

1日目は、東の空に

きれいに虹の橋が二重にかかっていて

感激して写真に撮って、

大きくて入りきれないので

スマホを動かしながら動画でも撮って、

楽しんだ。

 

翌日の虹は、

短くて太い足元だけが

仕事中に、というか、

授業をやっている最中に、

教室の後ろの窓から見えて

「あ〜!みんな、後ろ見て!」

としばし全員で見入ったが、

その後まじめに

授業に戻ってしまって、

どうせなら写真も撮ればよかった、と

後悔した。

 

でもその分、

あの七色に透けた街の

美しい記憶は

1日目の完全な二重橋よりも

鮮明に残っている。

 

そんなもんだ。

写真に撮ると、たぶん

その時点で既に

自分から

やや切り離されている。

 

きっとそうだ。

捨てるべき写真というのは、

剥がれ落ちる寸前だった皮膚

みたいなものだ。

 

剥がれ落ちるのを助けてやる程度の行為だ、

「写真を捨てる」とは。

楽しんで血となり肉となった部分を

むしろ鮮やかに残すために。

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