ひっかかっている点は、どこなのか?

ひっかかっている点は、どこか。この一点だ。自分に問うている。

パートナーとのすれ違い。

相手が募らすイライラ。

解決できたかと思ったら、一瞬にしてもっと根源的なところへ展開。

長くて短い道のりを述べる。

 

 

最後の日常生活 

 10月中旬。

 パートナーと湯布院に行った。

 画廊で、良い絵をたいへん破格の値段でお譲りいただけた。そのお礼状を書こうとしていた。

 乗馬にも行った。馬との呼吸が合ってきた感じがあった。私の方が褒められることが多くなり、相手はちょっと前から、不機嫌な空気でいることが多くなっていた。

 始めた当初は彼のほうがよく褒められていたので、私はそういう関係にあるほうが安心できると感じていたけれど、最近は、同じ馬に対してでも私のようにうまく扱えないこともあり、向いてないとすら言い始めていた。

 同じ馬場にいても、一緒にレッスンを受けている嫌なおばさんが嫌なことを言ってきやがった、とパートナーが一人苛立っていることも少なくなかった。

 仕事にしても何にしても、いちいち敵対しようとするから、相手もそういう態度となるのだと私は感じていたが、そう伝えることすらもギスギスしていてできず、言葉を選ぶことがとても多くなっていた。

 

 乗馬の帰り、私には夕方すこし予定があったが、午後6時半以降は自由に使える、と伝えると、食事はどうしようか、という自然な話題になった。そしてパートナーは自分から、よく行く中国料理店の名を出したので、それもいいねと言いながら帰った。

 

不条理な一場面

 帰ってくるとピザの宅配のチラシが一枚入っていた。その写真を見た途端、「ピザでもいいな」と言う。ふつう、言ったことを後で変えると嫌がるのに、急にそう言うので、ピザといえば少し前に行ったイタリア料理の店がおいしい上に気前が良く、次回ちょっとしたピザ一枚サービスという楽しい小さなチケットをくれていたのを思い出して、じゃああのチケットを使おうか、と言ったところ、

 「そんなに立派なものじゃなくていい。もういい。意見がずれたから、今日の話は全て無し」

と、どこで食事をするわけでもなく、ただ険悪なイライラだけが残された。

 ほんとうによくある、ひとりでイライラを露わにする態度だったので、そうですかと放っておいた。

 回答していなかった国勢調査が再送されてきていたりもして、本人に聞かないとわからない項目があったり、絵のお礼状を急いで書こうと言っていたタイミングでもあったので、気分を変えてそういう話題について声をかけ誘ってみたが、情報が必要ならこれを見ろという態度で黙って会社の封筒をテーブルに投げ出すやら、お礼状を書きたいのはお前のペースだ俺は気分が悪いのだから書きたくもない、などと言い出すやらで、悪化の一途だった。

 理不尽さが多すぎるので、そもそもそのイライラはそちらの感情であることを伝えたところ、もう食事の話は終わったことなのに、お前がまた持ち出した、と怒鳴り始めた。

 

お前がいるからわるい(あたしのマンションだし在宅勤務中だしなー・・・)

「だいたいおれは、一人だったらそんなに毎回食事に時間はかけなくていい。テキトーにすませられる。毎回毎回お前と一緒だから気を使って時間を使わないといけない。一人だったらこんなことにはならない」「いつもいつも、仕事から帰ってきたらお前がいて、おれは一人になれない」

 頬に息と唾とがかかる5センチぐらいの距離から、目をむいて怒鳴られた。クソが。とも続けられた。そしてまるで自分に言い聞かすように、俺は正しいから俺のやりたいことだけをやる、と言い放つ態度は、悪魔に呪われているかのような姿だった。

「わかった。」と私はそのへんにあった雑誌を足元に投げつけたが、こんなに心の中は冷静でいられるのか、と我ながら驚いていた。その後、彼はその雑誌やら他のものやらを粉々に破り散らかし、部屋中に何かの物体がぶちまけられ放置された状態がずっと続いた。

 

あんたも家におったやろ

 私が家にいるのは、在宅勤務になったので、当然のこと。

 コロナでもなんでもなかった3年前、相手は自分の意思で気に入らない職場を離れ、その後まるまる1年間、仕事をしていなかった。なぜしないのかも私に言わなかった。ただ、家にいた。一人になれず私もストレスだった。ヒトに愚痴は言うまいと決めていた。仕事の帰りにわざわざカフェに寄ってぼーっとしてから家に戻ったりしていた。

 そのまま、ハワイに旅行することになった。貯金がいくらあるのかなど、私からは尋ねなかった。出発の成田空港で、残金が千数百円しかないから、お金を貸しといてほしい、と言われた。帰国しても、仕事をしようとしなかった。

 尻を叩いて、話し合って、外に行かせた。新しい仕事をやっと見つけてきた。やれば認められ、契約社員としてある程度とりまとめ役的なポジションについた。そこで今度は過剰とも思える自信に満ちた発言の数々が始まった。

 理のある正義の味方的な論理も入っているので、信用も得ているところはあるし、闘いたいエネルギーを持っている時期でもあるだろう、とも考え、そうそう抑えつけるようなことは私も言わなかった。彼は私よりずいぶん若い。

 

敵じゃないのに敵視され続け・・・

 だから時々、家で話をする中で、私も「まぁ根本的に違う相手とあまり闘ってもしょうがない」となだめる程度のことはしていたけれど、それ以外は、いつもまた職場のバカな上司が、こんなバカな発言をしてまったく世の中やってられない、という、いわば自分を確認するためのような話がずっと続いていて、私はまぁ、あまりおもしろくはなかった。

 でも自分で気づくしかないし、と思って黙って聞いていたところは多い。

 相手のイライラが大きくなると、私が諸手を挙げて賛成していない空気にもイライラするようになった。

 いつも買っていたワインの通販で、また何か選ぼうよ、とノートパソコンの画面をみていた瞬間、パタッと画面を閉じたと思うと「なんで返事をしない!?」とイライラと足先を動かし始めている。機嫌よく独り言のような何かを口にしていただけだと感じて隣にいただけだったので、寝耳に水にも程がある。

 「私はあなたの敵ではない」と、同じような場面のたびに何度となく伝え続けた。

 これまでだったら、私もいちいち相手に反応し、感情の渦の中に互いに飛び込む繰り返しだったけれど、私もずいぶん変わってきているという自覚がある。彼のイライラの根源には、その距離感への焦りも含まれているのだろう、とも感じ続けてはいる。

 

 自分が機嫌を悪くした話題の一つだから、ということなのだろう、ワインのことは二度と自分から話題にしない。ワインは買わないまま。そうやって一つ一つ、楽しく動けるところが少なくなっていっていた。

 

安ホテル生活

 そんな中の、10月後半。息と唾とがかかる5センチの距離からの「お前がいるから」イラつくのだという怒号であった。

 コロナのイライラから始まって、6月だったか、いつだったかもう覚えてもいないけれど、相手は、私との諍いで一度奇声を発した。10月に私を怒鳴りつけた後、それと同じ奇声をまた発した。

 あまり、自分の意のままに周囲を動かすのに叫べばよいというものではないけれども、私は相手の一人になれなかったことによるストレスを最大限に汲み、「一人の時間を過ごしてください」と伝えて、仕事の道具を持って近くの安いホテルを探しては2泊3日ずつぐらいして戻り、洗濯して自分の部屋に干す、というのを何回か繰り返した。午前中のオンライン授業をホテルでやるためには、その日を挟んで2泊とっていないとできないのだ。

 

家庭内別居(狭いのによ・・・)

 さすがに仕事に支障をきたすので、その後はうちの中にいるようにはしたけれど、食事は完全に別のまま、部屋もトイレも私は掃除しないことにしていたので、荒れ放題。相手が使った皿類や、毎晩何本かずつ飲み続ける酒類のビンや缶は、シンクやその周辺に3週間放置。毎晩、何か出来合いのものを買ってきてはチンしてテレビを見ながら食べ、その直後にトイレに行ってはゲーゲー吐くという行為を繰り返していたようで、トイレットペーパーの減り方が半端なかった。

 私は冷静を心がけ、朝、顔をあわせたような時には、おはよう、と言うようにしていた。11月は、ただそうやって過ぎた。別々に仕事をして、別々に食事をし、別々に寝ていたら、ほんとうに相手の存在というのは、消えていくものだと実感した。

 ほんの少しずつむこうも挨拶するようになってきた12月初旬、少しずつ少しずつむこうがメールを送ってくるようになった。私もそれに返した。10月の乗馬の帰りに行くはずだった中国料理の店に行かないか、と誘ってきたので、うん、と返信した。店の前で待ち合わせた形になって、久しぶりに話した。

 

再会(か?)

 その日は、相手は「全然関係ない話だけど」と言いながら、どうでもいい話をし続けた。その日は吐かなかったようだ。翌日は、まるで怒鳴りちらかして言ったことを忘れたかのように、食事を共にする発言をするようになったので、流れに任せて、久しぶりにテーブルに並んで食事をした。

 

 その夜、食事が終わってから急に、「理不尽な感情のぶつけ方をしてすみませんでした。」と始まった。

 意地を張るタイプなのに、私が感じていたことそのままを口にして謝ったので、よほどの自覚があったのだろうと感じたし、私も自分の感情を冷静に保ったままでいることができて、良い結果に戻ってよかった、と、一瞬感じた。

 

しかし、困惑する理屈が待っていた。

 

ひっかかる点

謝り方は、こうだった。

「自分の態度はコロナのイライラから始まったのだけれど、それに加えて、

 a. 好きな人ができて、

 b. その人に気持ちを伝えたけど、受け入れてもらえず

 c. そのイライラをサンファル(私な。)にぶつけた。

 d.  abcが理不尽だったので、謝る。」

 

・・・・・私がひっかかっている点は、どこか。

 

aは、しょうがない。

それで共同生活が解消されるのは、どうしようもないことだ。

暮らし始めた時から、そういうこともあるだろうとは思ってもいた。

cは、済んだこと、という感じか。謝ったし、と。

・・・dって、謝ったのか?

abcを伝えることで?

 

bは何か。

それを選ぶのは個人の自由だ。

bの判断、行動に移ることを選んだ段階では、

これまでの生活が同じように続くはずはない。

少なくとも精神面では。

と思う。私は。でも

違う

という。

 

bで受け入れられなかった。新しい段階に移れない。

百歩譲って、そこで思い直し、これまでを見つめ直し

心から(が大前提ですが)気持ちを改めたのは本当だとしよう。

 

なぜ、それをこっちに言うのか。

「言わないのは不誠実だから」

 

不誠実はどこ?

サンファル「bでうまくいけば並行生活を続けていく気でいたことは、不誠実ではないのか」

 

「伝えない方が不誠実だ。これまでもこれからもそうする」

 

これからも・・・?

 

サンファル「外でうまいことやろうとしてできなくても家に帰ってくればいい、という保険のかけ方はおかしい。

 理不尽に感情をぶつけられるのも嫌だが、理不尽に甘えられるのも好きではない。

 そんな発想の人とは一緒に暮らせない。

 もっと大きいものに向かって学び合うことができる相手なら一緒にいる意味があると感じるけれど、そうでない相手との生活なら、私には無意味だ。」

 

おわかりでしょうか。相手には、

 (1) サンファルと暮らすことと

 (2) 好きになった人に気持ちを伝えること

は、別のことだと。

 

なぜなら

 (1) サンファルと暮らすことは、創作していく上で大切なこと。

 (2) 恋愛は、大したことではないから。

 

「創作」がスムーズにできている相手でもないわけですけど。

(そこには、「意識で世界が作られている」ということを全く信じない(それはお前の ”傾倒” している人たちの主張であって、俺はそんなふうに思って生きていない、と今も言い放つ)相手との、深い溝があるわけで、気が遠くなる。でもそこが埋まらないと創作はできないと私は思い、解決への実現をあーでもないこーでもないと画策してきた。)

 とにかく相手の主張は、abcdと(1)(2)との、掛け算から出ているものらしい。

 外で新しい嫁さんと子供作ったのに夫婦漫才しつづけてた人たちおったよな。そういうの私は嫌ですし。

 

「好きな相手に気持ちを伝えたということが悪いこととは思っていなかった。保険をかけたとも思っていない。でも、それがいけないと言うなら、これから自分を戒める」

 

 ”いけないと言われたから”とか、”戒める” とかいうのは、自然な感情がありながら、私のせいでそれを抑えつけるということ。それは将来また溜まって私に対して爆発する原因となる。私が "悪いことだ” と言ったからしない、と明言する発想はおかしい。

 

コバンザメのヒレがくすぐったい

理屈では、都合のいいことを言う奴だと思う。

ほんとうに感覚が違う相手ならなおさら、切り捨てる方が簡単なことだ。

「悪いと思っていなかったことだが、いま悪いと言われたので、それを戒めると言っているだけだ。恋愛なんて大したことではない。そんな気持ちを戒めて生きるのは難しいことではない。サンファルと暮らすことと、他の女とうまくいくことは、違うことだ。

 自分があんなに理不尽なことを言った後なのに、自分のメールに最高の返しをしてきた時、ほんとうに悪かったと思った。自分にとって、こんなにセンスの合う人はいない。そんな人と、離れて暮らす理由が無い」

 

 良いように言えるものだ。外で発情して満たされなかった分をうちで発散していたと言われても仕方のないことをしちらかしていたのだが。

 レンアイカンジョーというものが根底に微塵も持てなくなっているのに創作に関してはこいつと一緒にいれば何かおもしろいことが体験できそうだ、という発想でついてこられるのは、腹にくっついたコバンザメの背びれでくすぐったいだけの足手まといでしかない。

 

だから、切り捨てるのはある意味、理屈の上では簡単なことなのだ。

今見つめたいと思っているのは、もうすこし違う角度から。

 

ほんとうの自分を垣間見たいだけなのです。

切り捨てたいと思う衝動は、

・abcdと(1)(2)の掛け算を急に浴びせられての一時的な苛立ちに過ぎないだけなのか、

・外での発情をうちで処理しました、という点の生理的に気持ち悪い部分が許せないのか(それが一時的なもので時間が解決するもんなのか、体質的に無理なのか)

・人の過ちを一滴も許す気の無い冷徹さがまだ残っているがゆえの、揺るがない論理なのか(果たして、相手のその「発想」が「一時的な過ち」で済むのか、というところの見極めも大きな課題だけど)

・出ていくならさっさと出て行ってほしい、すっきりした正月を過ごしたい、ものを放置、溢れさす人間がいなくなれば、さぞすっきりできることだろうと本気で夢想する

 

悩んで引きずる気持ちは、

・この年末の、自分も特に多忙な今月中に、わさわさと出て行かせるのが煩わしくて、もう少し先延ばしで様子を見ようとしているだけなのか

・ほんとうに相手の宣言通り何かが変わることに1ミリでも期待したいところが強いのか。

 

そしてそれは

希望ゆえか、寂しさへの不安ゆえか。

 

その希望というのは、

今まですべての人間関係を「また失敗だった」と感じ続けてきた自分を終わらせることができるのではないか、という期待。

 

それと同時に抱える不安は、

その希望を持とうとしたばっかりに、もっと先になってやっぱりあんな発想の人間が変わるわけがなかったじゃないか、と結局傷を大きくすることになった自分にうんざりしてしまうのではないか、という不安。

 

希望に賭けたいと思う気持ちに、寂しさを避けたい下心が働いてはいないか。