桜桃忌

6月13日といえば桜桃忌。

太宰治の命日。

 

べつに太宰が好きだ

というほどの

思い入れがあるわけでもないけれど、

毎年、ちらっと思い浮かべる。

 

「桜桃忌」という

文字からくる

薄明るい黄色やピンクの

眩しい寂しさ。

 

 

中学生の時、

家の中でもらう少しのお年玉が

所持金のすべてだった頃、

 

きっと何かを求めて

ひとりでレコード店に行った。

 

永井龍雲という

おそらく名前だけで

並び立つシングル盤に目星をつけ、

自分に合う何かを

ごそごそ探したのだったと思う。

 

そして

ジャケットの

草にねそべる、虚ろな目をした

「いい感じ」の女性の絵と

「桜桃忌」という文字に

惹かれたのだろう。

 

アーティスト買いであり、

ジャケ買いであり、

タイトル買いでもある。

 

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その一枚のレコードだけを手にして、

きっといつもの

ぶすっとした顔で

私は家に戻ってきたのだろう。

 

ひとりで

薄暗い部屋の

小さいプレーヤーの前に座った私は

もう

今に続く世界にいる。

 

ちりちりと始まりの音がして

歪んだピアノの

イントロが始まって、

 

透き通る永井龍雲の声は

もの悲しく、

 

歌は

私の好きではない

6月の季節のことを

「襟元を吹く風が

 心地よく肌に馴染む」

と美しく描き始めたが、

 

私が持つ

夏の眩しさへの

居心地の悪さのようなものが

この歌の世界にはあって、

 

「思い出す 桜桃忌」

と歌ってからサビに行く

大人の歌詞の一行一行を

私は

何度も何度も聴いた。

 

 

「あなたは他の誰よりも

素直に生きていた」

「でもほんの少し先を

見つめすぎただけのこと」

 

繰り返すたたみ掛けが、

なんとも意味がわからないような、

それでいて

ずっとひとりでいる自分に

言われていると確信できるような、

重なり合った感覚のまま、

うつむいた目線の先の

絨毯の柄と一緒に

今も耳に残る。

 

何度も

針を元に戻して

繰り返し聴きながら、

 

「桜桃忌」の意味を知り、

「いい感じ」の絵の作者を知った。

 

あの環境の中で

ひとりで

知らない情報にたどり着いたのだから、

 

きっとうちに唯一あった

広辞苑か何かを抱え込んで

小さい文字を追って

調べたのだとしか思えない。

 

太宰治という大人のことや、

竹久夢二という絵描きのことは、

その時から

意識の中にはっきりと座った。

 

 

何月のことだったのか

まったく思い出せないけれど、

6月の眩しさを

虚しく感じる瞬間には

今も、瞬間的に

私の視界は

あのレコードプレーヤーの前に戻る。

 

自分から

今日は私のたんじょうびなんです〜と

申告しては

「おめでとう」をもらう人達を

私はいつも遠く感じる。

 

この湿り気に満ちた

薄曇りの空気の中、

自分が生まれたと言われている6月の、

自分が生まれたらしい日を

すこし過ぎた、この

桜桃忌の日には毎年、

 

今よりさらに

身を守る術も知らず

たったひとりで

自分の心を守っていた中学生の自分を

思い出す。

 

 

 

冷静に知るために:ワクチンウィルスワクチンウィルスウィルウェルウェルネスチンチンワクワク(1)

冷静に知るために

ワクチンのこと、ウィルスのことを

きちんと知りたいと思っています。

ある程度わたしにも理解できるお話

ホメオパシージャパン由井寅子さんのお話より)

を見つけたので、まとめてみました。

 

ワクチン接種した人も、

する予定の人も、

迷っている人も、

しないから自分は逆に安全と思っている人も、

できるだけ最新の情報と

そこから考え得ることは

共有し、随時、認識を更新していくのがよい

のではないか、と思っています。

 

まず冷静に把握してみる。

そして、その後、

それでもどうにかしてゆきましょうよ、と

道を探ってゆくよ。その(1)。

 

【1】「イメージ」と「現実」

まず、知りましょう。

新型コロナウィルスに感染(※)してしまった人と、

(※ 実際の「感染」ね。「陽性反応が出た」人ではなく。)

感染予防のためにワクチンを打った人とでは、

現実の体の中は、どちらも同じ

「(いわゆる)ウィルス蔓延状態=感染状態」

になっているらしい。

 

ワクチンを打つということは、↓こういうイメージ。

 

「予防接種」とは:

 悪いもの(ウィルス)が入って来た時に

 防衛できるよう、

 その悪いものの中の「ある一部」だけを

 先回りして、体に入れとく(抗体を作っとく)。

 これで安心。

 

「ある一部」を入れるだけで、

ウィルスそのものを入れるわけじゃない。

だから毒じゃない。

それでちゃんと症状も出なくなるし。

という感じのこと。

実際、新型コロナウィルスのワクチンについても

そう説明されている。

 

「まぁリスクも無いわけじゃないけど、

罹患した時のリスクよりはるかに低いから。」

というのが、

「予防接種」全般の捉え方だろう。

 

予防接種大国の日本では

特にこの考え方が一般的だ。

私もそういうもんだと思っていた。

 

けれど、つい最近も最近、

新型コロナウィルスのワクチンについて

明らかにされたことは

 

  • その「ある一部」というのがまさに、体の血管の中で ”悪さ” をするものを作り出す張本人だった!

 

ということ。

「”悪さ” をするもの」 というのは、

「ウィルスの”毒”の部分そのもの」で、

 ”スパイクたんぱく” と呼ばれるもののこと。

(ソーク研究所:2021年4月30日 Circulation Research誌)

(詳しく自分で考えたいお方は↓

  ソーク研究所、(記事を引用しながらの)日本語での詳説

 

つまり、

毒じゃないと思っていたものが毒だった

ということ。

 

今までの私たちは

「ウィルスが体に入ったら大変!」

という、まだちょっと、ふわっとしたイメージを

持っていただけだったけれど、

「てゆうか、スパイクたんぱくが体の中にいたら大変なのだ!」

という現実がわかるところまで来た、ということ。

 

 

呼吸が苦しくなる病気だと言われたりとか、

後遺症としてはどこどこがやられるとか、

ワクチン接種者の周囲に

具合が悪くなる人が多いとか、

ワクチンも効かない変異株が出ていて恐ろしい

とかいうことも、

すべてこれで説明がつくようだ。

 

【2】体の防衛機能

<ふつうの感染経路>

外からの侵入者(ウィルス)は、

手で顔をさわったりして

目や口(の粘膜)から入ったり、

呼吸して肺に入っていったりして、

そこから広がっていく。

 

<そこで出動する自然免疫> 

だから、そういう外敵が

入って来やすい入り口には、

ちゃんと防衛機能として

体の門番がいる。

 

つまり

喉とか肺とかには

外敵センサーがたくさんあって、

侵入者が来たら

体の中の自然免疫軍に、警報を出す。

 

入り口のところで防ぎきれず

本当に奥に入って行かれたら

その軍が出動、侵入者を撃退。

 

<ふつうじゃない侵入経路:注射>

喉や肺は通過せず、

いきなりブスッと針で、直で体内へ。

しかも大量に。

 

<そんな時の自然免疫軍たち>

門番は気付けない。

センサー発動せず。

だから警報も発してない。

軍の兵士たちは「え?」って戸惑う。

 

こういった混乱時には、

スペシャルなチェッカーが

控え室から登場するらしい。

(IgGというお方らしい)

 

兵士のように敵を倒す力は無いけれど、

なんとか「敵だぞこいつら!」と

チェックしておこうとしてくれるようだ。

 

  • 緊急時スペシャル臨時チェッカー機能:「こいつら、なんかわからんけど侵入者だぞー!敵だよ!敵!」と、自然免疫軍の兵士たちが攻撃できる目印となるよう、旗を立てる。

「旗を立てる」というのは、「抗体を作る」ということ。

(IgG抗体というらしい。) 

 

抗体ができたなら、よいんじゃないのか?

 

・・・ちがう。

 

自然免疫軍の兵士たちは、

自然界の敵しか相手にしたことがない。

自然界の敵なら、「敵だ」とわかる。

 

でもこの侵入者は、

人工的に作られたロボット(※)みたいなもの。

 

(※ ウィルスの「ある一部」のコピーを

 脂質の膜で覆って、

 界面活性剤でくるんで、

 ナノサイズに仕上げました☆

 これは、ヒトの細胞の中に

 チョー入って行ける性質の、三つ揃え

 自然界にはそんな性質のものは

 存在していない。)

 

見たことない相手に、

兵士たちの「え?」は続く。

戸惑いマックスで、兵士たち萎縮。

 

むー ・・・この状態はつまり、

 

臨時的に目はつけられているが

撃退されるわけでもない外敵が、

大量に身体中をうろうろしているから、

もう毒は作り出されて

「悪さ」は始まっている、

という状態。

 

兵士たちが「え?」とうまく働けない状態とは、

「自然免疫が一段階下がってしまっている」状態のこと。

 

「悪さ」され放題。蔓延。

 

これが、

「ワクチン接種で ”抗体” が作られるから安心」

と思われている状況の、実情。

 

イメージと真逆の現実。

 

「抗体」は「免疫」ではない。

 

体内に「抗体がある」ということは、

侵入者を排除できていない

「未解決な混乱状態」が

続いている、ということ。 

体の中が「とっ散らかった状態」だということ。

 

今のワクチン接種は、

新型コロナウィルスが

体内に入って「悪さ」している状態と

同じ状態を

人為的に作り出してしまう、ということ。

 

 

いったんここまで。 

取り急ぎお伝えしたいので。

 

でも、ワクチン接種者を差別するのは、

また違うことです。

 

皆ひとりひとり、

その瞬間瞬間の「最善」を選択して

「今」の瞬間にいるだけなので。

 

対策は考えてゆきましょう。

でも、まずは全ての人々が

免疫を下げない生活を心がけることです。

 

次回は、

「ある一部」のさらにエゲツない性質から始めます。

 

 

【夢】ユダネル THE ベスト。

昨日の夢は、なんちゃないような、でも

「委ねてればいいのだよ」

という夢。たぶん。

 

【焦る夢】

外国にいて、帰国する日の朝で、

13時から14時の間に空港にいないといけないのに、

パスポートを持っていなかったと気づく。

 

(その夢の中では、

 日本出国&その国入国の時には

 パスポート無しで

 スルッと移動できるけど、

 戻るためにはその人の照明のため必須・・・(笑))

 

同居人も一緒だったけれど、

あ~あ、パスポート無いなら無国籍だねー、

と他人事として言われて、

とにかく空港に移動しようとしているうちに

はぐれてしまった。

 

スマホも、移動手段も】

ざわつく町の中、呼んでもどこにもいない。

電話で呼び出そうとして、

スマホが無いことに気づく。

 

無いというか、バッグの中からは

いろんな形のスマホやケータイが出て来る。

 

あれ、私のはどれ?あったー、と思って

電話してもつながらない、

ん?とよく見ると、

また私のではなくって、

なぜかどこかで誰かのをいっぱい

間違えて持って来ている。

すごくもどかしい。

 

道は、海の満潮と雨が重なって、冠水。

間に合うのか?時間は過ぎる。

朝から動いているのに、もう、

空港についていないといけない時間に

なってしまっている。

 

とにかく、私に関係しない人が多い町の夢で、

雑然としている。

 

【通り過ぎるためだけの人々】

これは、私の夢にあるパターンの一つだ。

賑やかではある。

皆、私と関わりのない人たちとして

そこにいる。

 

居酒屋みたいなところや、

アミューズメント系のダンスできる場所や

電子機器類のショップみたいなところも

通り抜ける。

 

 

知り合いもいて

あ~もー今日むしゃくしゃしたことを

からしゃべるよー、っと

カフェの一角でノートパソコンに向かって

自分のユーチューブの番組を始める人とか(笑)

(えっ、この人がユーチューブを?とか思いながら、

 こんなに困っているわりには

 頼る前提もなく、私はうろうろしている)

 

日本の領事館に行けば仮パスポートのような

証明を出してもらえるだろう、なんとかなるはず、

とか、自力で動く結果の頼り方として

そんなふうには考えている。

 

【ユダネル】

でも、

どうにも、すべての手段が閉ざされている。

もう、時間も無い。

動く手段も無い。

外国でポツンと、身の証明のしようも無い。

自分からはつまり、働きかけようが無い。

 

・・・こうなったら、

自分以外の何かから

呼んでくれるのを待つしか無い。

 

自分を中心に置いた宇宙を信じて

常にベストなことしか起きないという法則を受け入れて

委ねるということだ。

 

すとん、と力が抜けて

夢の中で、けっこう冷静にそこに思い至った。

 

そう思ったら、すぐ

誰かに名前を呼ばれた。

 

スマホを誰かが拾ってくれたことで、

スマホのショップの日本人スタッフが

私のフルネームを、

とにかく町の中に向かって

「いませんか~?」と叫んでくれている。

 

はいはいはい!私です!!

と手を上げながら寄って行って、

まずはスマホ、戻って来たヽ(´▽`)/

 

そこで今の八方塞がりの状況をつぶやいたら、

「あ、じゃあ、あそこに連絡してあげたらどうかな」

と、そこの社員さんたちが、

動いてくれはじめた。

 

そのなりゆきというか、委ねて拓けていくプロセスを、

へー、こうなっていくのか

と見ていた感じ。

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八方塞がりの時は、「上」になら抜け道がある。

斎藤一人さんがゆってた。

 

それなりに辻褄は合っていて、

話の筋は流れていっている夢は

過去生の記憶だというから、

この夢もどこか、気づいた場面みたいなものを

思い出していたのかもしれんなー。

 

【夢とうつつの、天の橋立】

私の夢の見方の癖でよくあるのが、

起きてしばらくは夢を見ていたこと自体

忘れきっているのに、

數十分後から、

うーんそーねー、何時間か後ぐらいかな、

になって、急にぱっ!と

その朝の夢の内容を思い出す、

というパターン。

今回も、それ。

 

あーそういえばなんか

ざわついた長い夢を見たんだったな〜、

と思った後

その日の午前中に会った方とふつーに、

がんばらない、やりたいことだけやる、

という話題になった。

 

「若い頃はがんばろうとして抗ってたけど、

最近はそういう意識はやめよう、って

思うようになってる

あら、あなたも〜?」

とか話されて、

そうそう私もー、と

話しているうちに

また夢を思い出して、

「そう言えば今朝、

委ねた途端に八方塞がりがすべて

拓けていった夢を見たんだった」

と話したら、

その方はごく自然に、

「それを感じとって

私も今この話題を出したんでしょうね」

と。

 

なんか、するするっと、

夢と現実が入り込みあっていて

力が抜けて、よい。

 

 

 

 

春分の妖精茶会ほほほ

わぉ・・・宇宙の時代的にも完全に新しい時に

じわーっと移り変わった、という、その

境界線を跨いだ瞬間というのは

2021年3月20日18時38分だったそうだ。

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これ、その瞬間。博多は春の雨。

 

春分は妖精と接しやすい時の一つらしいよ〜。

そこで、妖精をお招きして茶会をやってみた。

 

【妖精いろいろ】

妖精というと、ティンカーベル的な

かわいらしいイメージが先行するけれど、

いわゆる妖怪とか、いろんな呼び名の、

人間にいたずらして来たり、助けてくれたりする、自然霊。

 

ちょうど一年前の3月、

スタジオでの録画の中に、

光の粒が、ぽよ〜ん、ふわふわ〜り・・・

と舞って映り込んでいた。

(ちょうどこの開始時点5分25秒〜30秒ぐらい

youtu.be

 が、いちばんハッキリ飛んでおる。)

あれは、応援してくれていた妖精だわね。

飛ぶよね、妖精。

最近は仕事のため作った動画の中でも飛んどったからね。

 

 

【窓を開けて、お呼びする】

妖精は楽しそうにしてるところにしか来ないから

楽しくしてる「ふり」でもいいから(笑)、

皆で楽しく笑っておしゃべりを・・・というのも

妖精茶会の開き方(というのが、あるのだよ)のうちの

大事な要素の一つらしい。

 

 でも、お茶会に来る予定だった人は

ご都合でキャンセルになったことだし、

やっぱこういう記念すべきゼロ地点は、

自分ひとりで迎えるものなんだわー、と

楽しく一人で賑やかに茶〜飲んだ。

 

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妖精の席にに集う、

マトリョーシカ猫、ガイコツ、水晶、鈴、香り、花びら、マツカサ・・・

 

【ストロープワッフル】

お茶会用に、とお菓子を買うなんて、いつぶりだー?

ひっさびさに、大好きなストロープワッフルもいただいた。

香ばしい薄焼きワッフル生地に

キャラメル味のシロップがサンドされてるやつね。

 

中学1年の時、なんかしばらくオランダに行っていた親戚一家が

送って来てくれて、初めて食べたんだよなー。

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温かいお茶の入ったカップの口に蓋をする状態で

しばらく置いておくことで、

挟まれたシロップが温まって、

トロ〜リととろけて美味が増すのだと

今回、パッケージを読んで初めて知った。

 

そんな、名前も食べ方も知らないままに、中学生の私は

それが送られてくるたび、ワクワクしながら

ただパクついていた。

 

あれはもっと大きい円形だったと思う。

シロップを挟んだずっしり丸いワッフルが

何枚も重ねられて、

異国情緒の絵柄の筒状の缶に入っていて、

開けると甘い香りがして、

他には無い初めての噛み心地と、広がる旨さに、

あたしゃーほんとに感激したヨ(ちびまる子ふう)。

 

ああいう、味や香りに対する

純粋な感激というのは、

とても強い刺激として、記憶に残る。

良いものだ。

 

あの一家が私にしてくれた

唯一の嬉しいこと。

一つだけでも嬉しいことがあったのなら、

ま、ありがたいこった。

 

その人たちからの、あれやこれやのイヤな言葉の数々と

相殺しようとするほどに、

あの感激は

大きな比重をもって、私の記憶に根を張る。

 

 

【妖精が、杖で、ピ〜ン!】

なにせ、一人でやってるから(笑)、

ぜんぶ妖精相手に

自分の胸の内をいろいろしゃべった(怖)。

 

敢えてやってみると、

最近の自分を振り返る、実に良い機会になった。

 

きっと妖精のおかげだぜ。

先に星のついた杖で、私のどタマを、ピ〜ン!と

突っついてくれたのだろう。

リラックスして、気がついていく感じ。

 

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「どタマを・・・。」

 

その、一年前の光の粒の時には

まだどこか、アタマでわかっていることと

体感できていることに乖離があった。

 

「不安」を抱えているうちは、まだまだ

気の持ち方として「不完全」な状況だ、と

つい、どこかで感じてしまっていたのだと思う。

 

けれど、そんな、あなた、

このまま進んでいいのかな、という不安は

あって当たり前だもんな。

寿命のある肉体をもって、生きているのですから。

 

いくら今やっていることがベストだ、と

アタマではわかっているつもりでも、

あるいは、後でそう思えるように

がんばっているつもりはあっても、

 

曇り空の下で人生の持ち時間が減っていっている

と考えてしまう発想からまでは

なかなか自由になれないのが

・・・実際のところだろ?

 

だから、当たり前なんだよ、いちいちの不安は、あって。 

よーがんばっとるよ。

私も。

あなたも。

 

ごく自然にそう思えて、 

そしたら、妖精さんにお帰りいただく頃には

なんでか無性にワクワクして、

ものっすごく楽しくなって、

声まで出してキャハハハ〜と笑ったりした(大怖)。

 

ってことは、やっぱ、いらしてたんでしょね、妖精たち。

ありがとござます。

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<羽の妖精、ヒゲの妖精>

 

いいんだよ、なんでも。私はそういう存在を

思いやり、同時に、味方につける、

とはっきり意図したのだから。

 

 

【また妖精が、ピ〜ン!】

妖精茶会を開くには、「花」も欠かせない。

一週間ほど前かな、

これまたワッフルに引き続いてひっさびさに、

花を買っていた。

 

それがまだまだしっかり保っていたから、

水切りだけして活け替えて、

直前に摘んで来た草花も添えて

妖精の席に飾った。

 

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今は、ラナンキュラスの季節でございます。

ローズゼラニウムの葉も、良い香りなのでございます。 

 

何かしながら

お茶タイムをしていることは多いけれど、

わざわざ茶会と名付けて、席まで整えて

お菓子とお茶を味わいながら

花を愛でるなんて、

まぁ、なかなか無いわな。

 

あーもーワッフルうめぇぇ〜、

全粒粉ビスケットもうめぇぇ〜、

オーガニックレーズンもうめぇぇぇえ〜、

コーヒー派だけど紅茶もうめぇぇ〜、

と、思い続け、

声にも出す。

 

味わいまくりながら花を眺めていたら、

妖精がもう一振り、ピ〜ン!

また気がついた。

 

なんてぇのかしら、私は「花」も

実は好きだったんだ。

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【実は、中身が乙女座】

でもそれも

自覚していなかったことの一つだったなー。

オレに花束なんか似合わねぇ、と。

 

フラワーアレンジメントも習っているというのに(汗)、

いや、これは別ですし(何が別なんだ?)、

とか

お花にぅわあ〜かーわーいーい!とか言う人たちとは

違いますし(自分もすぐかわいーとか言うやないか。)

とかいう、ひずんだ意識で。

 

ピンクの服や、フリルふりふりスタイルも似合いませんし。

そう頑なに否定し、自分に言い聞かせることで、

自分の輪郭をイビツにも確保して、自分を保ってきたからなぁ。

 

いや、実際、似合わんし。

似合わんでもいいし。

 

と考えるのが、決めつけなんだ。

 

いや、でも、似合わんでもいいわけやし、

別にフリフリ好きでもないし。

 

と考えるのが、思い込みなんだ。

 

がんばりました。

もう、ゆるみましょう。

 

 

・・・・オレって、月が魚座なんだよ。

占星術の話な。

そこが、オレが惑わされてきたとこらしいんだよ。

 

月は実際の性質と真反対のところで

人間を惑わし続けてきてるらしいんだ。

 

その話を聞いた瞬間に、腑に落ちたから

それはきっと真実だ。

(いろいろあるけど、この話とか。

youtu.be

 

すごいお話をいろいろとなさるのですけど、

何が一番すごいって、この方のお名前。

どげなお名前だと思いますか?

マドモアゼル・愛。まじで。

 

 

youtu.be

この話とか、どんだけ精魂込めて

月と向かい合ってきたんだ?

という印象です。

 

オレには実は、魚座と反対の

乙女座なスタイルが合う、という

衝撃の真実を知ったんだよ、最近。 

 

いわゆるOLファッションだよ。

そんな服ひとっつも持ってないんだよ。

避け続けることに慣れすぎて、まだOLになれてねぇ。

冬にグラムロック風のパーマかけたとこだしよー。

 

でも、花を拒絶していたことと、

OLスタイルをすぐに受け入れられないこととは、

肚の底で、しっくりつながることなんだよベイベー・・・・

 

【ヘンタイ支配者】

思えば、私は花を、けっこう連れ回す。

ときどき、猫にもやるヤツです。

猫の意思をわざと無視して抱っこして

こっちにおいでよー、とこっちの「好き」だけを

ゴーインにゴリゴリ押しつける

(イヤーッ!と前脚で突っ張って拒否られたりするのとセットで楽しむ)

のと、同じ感じの。

 

花よ、私のもとに来たのだから、

私と共にあっておくれよ。

猫と違って、君は逃げられないからねぇ。。。

という、少々ヘンタイも入った、

許して受け入れてもらうのが当たり前の、

支配者的な連れ回し。

 

東京でホテルに泊まる時には1〜2本買って、

帰りの飛行機にも抱えて乗っていた。

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2019年6月のホテル。

立てば芍薬。立ってる芍薬

ホテルの部屋にはコップしか無いから、はじめのうちは

こんなアンバランスなことに・・・。

その後、以前ミュージアムショップで見かけた

ペラペラペタンコ花瓶を購入、愛用することになる。

 

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2019年7月のお伴。

も、ほんと、この花瓶チョー便利。

花が一輪あるだけで、ホテルの無機質な空気が

一変するからね。

 

去年10月、11月の安ホテル渡り歩き騒動の頃も、

その時うちにいた花を、文字通りあちこち連れ回し、

ホテルの部屋で水切りを繰り返した。

 

その都度、過酷な状況にしなだれかけては

コウベをもたげ直すのであった、健気なピンクのケイトウ(たぶん)。

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マジでこの花、ひと月近く一緒にいた。

最後はうちで、このように。お疲れのご様子。

すまぬ、過酷な道連れ旅。

でもすごく、”共にいた”実感があるんだ。

 

考えれば、うちの中でも

仕事をする時に自分の部屋に置いて、

食事の時にはキッチンやリビングに持って来たり、と

動かす、動かす。

 

なんだよ、好きなんじゃねぇか。

 

勝手に敬遠していたのは、やっぱり単に、

巷のオナゴたちの

「ぅっわぁ〜〜、お花キレ〜イ(*^^*)、ワタシ、大好き〜」的な、

花につきまとわせガチなキャピった態度や、

ヒトの目の方だった。

 

恐るべきジェンダーの塀の高さよ。

もうそれがわかったから、大丈夫だと思うわ。

 

オレは、

オレは・・・・

は、は、はな、花が・・・

花が、好きだーーーっ!!

 

 

そうやって、春分の日の茶会は

めでたく終了した。

 

 

妖精は一応、窓からお帰りになったけど、

でもいつもこのへんに、ピラピラといてくれてると思うわよ。 

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うまいオーガニックなレーズン。

レトロ感のある箱が、また、よい。

 

秋に、ご縁あって手元にやってきた

アンティークなイギリスの花のカードとも、違和感が無い。

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・・・また花じゃ!

 

これ、このアンティークなカード。

これ、いいんじゃ。

昔、たばこ?パイプ用の葉っぱ?か何かを

買ったら付いて来てたとかいう、

おまけみたいなもんだったらしい。

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ひとつひとつ丹念に野の花の絵が描かれ、

その裏には解説も。

いいよね〜

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これは、ブルーベル。

たしか、佐野元春がどなたかと組んでた

ユニット名も、ブルーベル。

 

今度は

これを愛でながら妖精呼ぼ。

思い直す。ということ。

思い直す。

 

私は同居人の感覚がわからず、戸惑った。

<詳しくは、というのもナニだが、

 2020年10月後半から12月前半の

 事情については、こちら(汗)

 

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(この秋冬はほぼずっと、自分の机の足元で寝袋に入って寝た。

在宅勤務で、仕事用のもんを色々持ち帰っていた私の領域。

ただでさえモノが多い中、ここにヨガマットとか敷いて冷気から逃れつつ。)

 

そこに至るまでの自分を見つめたプロセスと、

結論って無いよなー、という

途上の結論をメモっておく。

 

【つまり、私が変われと言われているのだ。】

散々といえば、散々。

自然な流れといえば、それまで。

体験したくて体験しているのだと思い直せば、

しみじみと、

今、この体験以外には、あり得ない。  

 

この半生、頭がごちゃごちゃになり尽くすことも

そりゃぁ多々あったものの、

ここまでの身近な存在が

こっちの次元を

こんなにまで捻じ曲げてくるような話は無かった。

 

それが今ふりかかって来たのは、やっぱり

それを今経験する必要があったのだろう。

私の次元を変えろ、と言われているのだろう。

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(安ホテルを渡り歩いていた10月、11月。

見上げるとアンタ、空には鳳凰よ。)

 

【浮力ゼロ継続】 

キーッと怒り狂うような嫉妬のエネルギーが出るわけでもなく、

いやだー別れたくないだって好きなんだもん的な感情も無いので、

ただただ浮力ゼロ状態となってしまう。

 

ただ、私がもしも元々相手所有の住居に入り込んでいる

逆の身軽な立場だったとしたら、

もうメンドくさいしスッキリしたいしシラけたしで、

多分さっさと出て行ってしまっていただろうとは思う。

 

なかなか自分のマンションを売り払ってまで

今の生活を解消しようとするには腰が重かったというか、

そこまでする前にもう少し自分の中を見つめなおせよ、と

メンドくさがりゆえに「余地」を探す方に向いたというか、

そういう様々な

消去法による現状維持によって、

「これからのオレの態度を見て判断してもらうしかない」

という、なんとも冴えない言い分を

飲む結果となっていた、2020年12月。

 

けれどその後も、「オレ」氏は、職場の話題を出し続ける。

(職場というのが、つまりその、

 好きになってフラれた相手がいるところ。)

 

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(人のいない部屋の中の静けさは、ほんとに

良いものなんだろうと思う。見れんけど。)
 

 

【NOやっぱりね!】

そんな12月のある日、一人でいた時に、

職場の話を続けられるその不愉快さが

どうにも流せないと感じたので、

感じたことに素直に動こうとすぐスマホを手に取り、

いったん職場の話題はやめてくれないか、

とメールしておいた。

 

一生その職場の話をするなとまでは言わない。

ほとぼりが冷めるまで、というやつだ。

でも、例えばだがこの同居人は、

「”いったん” とは聞いたが ”ほとぼりが冷めるまで” という言い方は聞いてない」

「話をすり替えた」

とか本気で言う発想の持ち主ではある。

 

けれど「これまでの経験」 からして、

相手の行動を「やっぱり・・・」と捉えていては、

こっちの記憶を上塗りしたフィルタで相手を見続けるばかりで

「これまで」から抜け出せんし。

 

そういう思いがもし湧いて出た時は、

意識的に否定するようにしている。

NOやっぱりね!

 

メールしたその日のうちに、

わかった、不快な思いをさせてすまん、

と返事が来た。

 

が、

 

その後も、職場の話題は続く。

どんな発想で続けているのだ?

もう自分の「いったん」が過ぎたのか、 

狙っていたカノジョの話題さえ出さなければよい、

と考えたのか、などなど。

 

今回のリクツは、後者であった。

 

【そこなんだけどね。】

件のブチ切れが起きる前の、2020年9月

同居人の誕生日。

仕事から帰ってきた相手に一応プレゼント

(けっこう、いいやつよ。)

(でもその頃にはもう同居人の癇癪のような

ピリピリ感もひどかったし、

こういうことするのも最後かな、と思いながら選んだ。)を渡してから

予約していた店に美味しいものを食べに出かけたが、

店に行く間にも、店についてからも、

止まらず続けるのは、その職場のコの素晴らしさの話であった。

 

で、「それ以外」の職場の話を続ける12月。

なんだかなー。

 

そうやって話題に出し続けていた人のことだけを

急にスッポリ切り取ったように抜かして話すことが

こちらにどういう印象を与えるのか、

ということはわからないらしい。

さすがは、甲斐性のない勝新太郎である。

 

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(必然的に、寝袋のところで過ごすことの多くなった

うちの人たち。おっぱい丸出し。)

 

「職場のことは話しちゃいかんけど、今日ね・・・」と

いう前置きまで付けて話し始める態度に、

 

「話しちゃいかん」?

その、意に反して禁止されているからそれに従っているだけだ

という不敵な発言にも聞こえる前置き・・・

 

も流しつつ、 

「やっぱり」と捉えないようにしている私としては、

それでも敢えて今話題に出す必要のある話なのだろう、と

良きように解釈して、話を切らずにいた。

 

結果的にぜんぶ話を聞いていたことになるが、

そこまでして今それを話す必要があったのか、

と私には思われる、笑えない話でしかなかった。

 

それが二度続いて、恐ろしくなった。

本人は、

「たった二回しか話してない」と言い放った。

意味のある話だった、

オレもなんでも話しているわけじゃない、と。

 

そこなんだけどね。

【「浮気」できるのも、協同作業】

いつからこんな歪みにはまってしまっていたのか。

いや、その考え方自体が、幻想の上に立つもの。

買いかぶりだ。

始めから皆ズレている。同じはずはない。

その「程度」の問題なんだな。

 

そう思うと、

妻に浮気がバレないように裏でドタバタ画策してみたり、

バレて言い訳してみたり、

ついでに多目的トイレに隠れてやったりしている

夫という立場の人たちって、

なんかしっかり奥さんと同じ価値観の中にあるなぁ、

同じ大地に立って世界を共有してんなぁ、

と思うに至って、感慨深い。

「浮気」ってもんが成り立つのも、夫婦の協同作業ですらある気がしてくる。

こういうことに気が付けたのは、ほんとうに良い経験です。

 

 【年末の口論】

いわゆる年末や正月は、まったく断絶したままで過ごした。

何の年越しでも新年でもない。

しかも、せっかくの大事な節目を楽しく過ごせないのは

私が「小さいこと」で腹を立てているから、という理屈が

あちらにはある。

 

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(弁天様にも詣らぬまま。)

 

そういった理屈で悪者にされることで

こっちが更に気分を害して傷つく

というパターンは、この人生、もうさすがに飽きた。

 

悪いのはそっちだ、という水掛け論に

水を掛け続けるような次元には

私はもういない。

 

そんなわけで、へこみもしない。

ただ、笑う気は起きない。

掃除をする気にもならない。

私が掃除しなければ、誰も掃除しない。綿ぼこり。

 

同居人が買い続けるコンビニ弁当のゴミ、ファストフードのゴミ、

酒の空き缶が急速に溜まっていく。

10月前半まで毎日磨いていたトイレは、

もはや公衆便所のような匂いがしている。

 

何の日でもない。

顔も合わさない。

 

ただ日が過ぎてゆくだけの。

ただ仕事が再開してゆくだけの。

 

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(鼻炎持ちのこちらの熟女が陣取る寝袋の表面には、

 鼻水の跡がついてゆきます)

 

考え続けたり。

目の前の興味をネットで追ってみたり。

本を読んでみたり。で

一日一日が過ぎた。

 

一週間ぐらいか。

 

【自分の言葉 】

私はあの時、12月の、30日だったか、

晦日だったのか、もう覚えてもいないけれど

こっちの不快さを伝えてまた口論になった時、

 

別れることも考えているということを伝えた時、

 

言っている意味がわからない、と

買いことばで責めてくる相手に

とうとう、

 

人の気持ちを踏みにじっといて。

 

と口にした。

我ながら、此の期に及んで

薄っぺらいありきたりの言葉を使うものだ、と

言った直後に思った。

 

瞬間的に、いろんなことを考えた。

私に、わかりやすい歌詞が書けないのは、

わかりやすい歌詞を書こうともしないのは、

これを薄っぺらだと感じるからだ、とも思った。

 

怒っていること、不快を感じていることを

自覚してしっかり伝えるのは

意識的にやったことだけれど、

それにしても、婉曲的に言っている場合でもなく

ただその瞬間に口論のスピードの中で

不快感を吐き出したら、

結局はそういう薄っぺらさになった。

 

本心なのに、なんだこれは、と思った。

確かに、言葉にしてしまうと、踏みにじられたから

こうなってしまってるわけですけど。

 

それにしても、

 

踏みにじられたって言ってしまうのかー、私・・・とか、

単に相手にシラケてしまってるのだよなーつまり・・・とか、

シラケた中で

こっちの言い分は主張しとこうとしたから、

感情との間に距離ができたゆえの表現だったのかもしれんなー・・・とか。

 

地球上のある程度の部分では大きな区切り目だった時を挟んで、

時間を超越した気分になりながら

考え続けたのは、結局、

自分が瞬間的に吐いたその言葉のことだった。

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(やっぱり私は、好きな場所にいると思う。

この落陽楼の夕景は、どんな精神状態で見ても美しい。)

 

【随伴者】

で、いつからか、なんとなく気がついた。

というか、ぼんやりと見えてきた。

 

その言葉を吐いた場面の、

多くはないのだけれどほんの一部分には、

お前のリクツより私の気持ちをまず優先せんか、

という

相手の行動への要求が入り混じっていた

ということ。

それを認めざるを得ないということ。

そこに多分、気がついた。

 

自分の不快を伝えただけ

だったつもりが、

相手の行動のほうに踏み込んで口出しする意識を、

織り交ぜてしまっていたんだな。

 

大まかに見れば浮力ゼロだと感じられたけれど、

微細なところまで言葉を追って見つめていたら、

ゼロではなく、負の感情で動いているところがあった

ということだなー。

 

これで今もし別れたら、

結局わたしは、

不快を捨てて快を取ったという理想的選択ではなく

生煮えの感情だけで

単に自分の生活までを振り回してしまうようなことを

しているだけ・・・

になるのではないか。

 

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(なんで飽きんとかいな、夕陽って。)

 

この後、どういった選択をするにしても、

今この感情のままで別れるほうを選んでは、

これまでの自分と結局は何も変わらず

振り出しに戻らされる。

 

まだまだ自分の中に、相手のせいにしているだけで

見つめ直すべき不完全さが

てんこ盛りになっている。

長い時間一緒にすごす相手は、

それを炙り出してくれるありがたい随伴者だ。

 

腹が立つところがある限り、自分の方に何かある。

 

 

【思い直す。ということ。】 

それで、思い直した。

いや、そう簡単ではないから、

「思い直す方向を向くことにした」

というのが本当のところ。

 

徐々に。

 

一月はいく。二月はにげる。

 

2月12日の旧正月を祝うことにした。

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(2021年2月12日撮影。)

 

部屋中、時間の許すところまで掃除して、

玄関も流して、飾り物もやっと去年のものを外し、

おせち的なものを買い出しに行って、乾杯した。

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(2021年2月12日撮影。ほんとうに(笑))
 

旧正月というのは、

冬至を過ぎて二度目の新月

なんだってな。

 

以前から太陽暦の1月1日は気分的に

全然正月らしくないと思っていたけれど、

いざ本気で旧正月を目指してみると、

その節目というのは、ほんとうに体に馴染む感じがある。

陽の光の強さが、新しい年の始まりに合ってもいる。

 

【わしのコロナ年】 

こんなどうしようもないことがきっかけで、

初めて旧正月を実感することになった。

 

2020コロナ年は古い地球が脱皮していくための

激変の年だったとはいえ、

私はコロナ自体ではあんまり

意識の上での劇的な変化を感じてはいなかった。

 

けれど、私にとってのこの一連のことは

2020年だけでなく、それまでにずっと溜まってきていた

すべてのエネルギーの噴出以外の何物でもない

と思い起こすと、

これが私にとっての

コロナ年にふさわしい、必要な大激変だったのだと思う。

 

これは全然、話の「顛末」でもなんでもない。

途上にあって、今という一点からいったん振り返って、そう思う。

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(なんと正月らしい(笑)・・・2021年2月12日撮影。)

 

信じるもの、頼れる前提を持つことを許されず、

どうしようもなく

一人で進むことを見つめ、覚悟させられた挙句、

最も確実に実感できたことは、

太陽と月の間で浮かんでいる地球の呼吸であった。

 

というようなこと。

 

私が思い直したからといって、すべてが

そうさっさと大きく変わるわけではない。

 

日々意識しているのは、

いま体験している世界は自分の内側の投影である

ということ。これだけ。

 

そのことが120%リアルに実感できるようになる時が、

浮力ゼロによるゼロ感情でなく、

本当に重い感情から解放された「自由」と

すべてへの「感謝」の時。

 

なんじゃないのかぇ?

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(アタマ隠して、乳首隠さず。)

 

終。
 

 

 

ひっかかっている点は、どこなのか?

ひっかかっている点は、どこか。この一点だ。自分に問うている。

パートナーとのすれ違い。

相手が募らすイライラ。

解決できたかと思ったら、一瞬にしてもっと根源的なところへ展開。

長くて短い道のりを述べる。

 

 

最後の日常生活 

 10月中旬。

 パートナーと湯布院に行った。

 画廊で、良い絵をたいへん破格の値段でお譲りいただけた。そのお礼状を書こうとしていた。

 乗馬にも行った。馬との呼吸が合ってきた感じがあった。私の方が褒められることが多くなり、相手はちょっと前から、不機嫌な空気でいることが多くなっていた。

 始めた当初は彼のほうがよく褒められていたので、私はそういう関係にあるほうが安心できると感じていたけれど、最近は、同じ馬に対してでも私のようにうまく扱えないこともあり、向いてないとすら言い始めていた。

 同じ馬場にいても、一緒にレッスンを受けている嫌なおばさんが嫌なことを言ってきやがった、とパートナーが一人苛立っていることも少なくなかった。

 仕事にしても何にしても、いちいち敵対しようとするから、相手もそういう態度となるのだと私は感じていたが、そう伝えることすらもギスギスしていてできず、言葉を選ぶことがとても多くなっていた。

 

 乗馬の帰り、私には夕方すこし予定があったが、午後6時半以降は自由に使える、と伝えると、食事はどうしようか、という自然な話題になった。そしてパートナーは自分から、よく行く中国料理店の名を出したので、それもいいねと言いながら帰った。

 

不条理な一場面

 帰ってくるとピザの宅配のチラシが一枚入っていた。その写真を見た途端、「ピザでもいいな」と言う。ふつう、言ったことを後で変えると嫌がるのに、急にそう言うので、ピザといえば少し前に行ったイタリア料理の店がおいしい上に気前が良く、次回ちょっとしたピザ一枚サービスという楽しい小さなチケットをくれていたのを思い出して、じゃああのチケットを使おうか、と言ったところ、

 「そんなに立派なものじゃなくていい。もういい。意見がずれたから、今日の話は全て無し」

と、どこで食事をするわけでもなく、ただ険悪なイライラだけが残された。

 ほんとうによくある、ひとりでイライラを露わにする態度だったので、そうですかと放っておいた。

 回答していなかった国勢調査が再送されてきていたりもして、本人に聞かないとわからない項目があったり、絵のお礼状を急いで書こうと言っていたタイミングでもあったので、気分を変えてそういう話題について声をかけ誘ってみたが、情報が必要ならこれを見ろという態度で黙って会社の封筒をテーブルに投げ出すやら、お礼状を書きたいのはお前のペースだ俺は気分が悪いのだから書きたくもない、などと言い出すやらで、悪化の一途だった。

 理不尽さが多すぎるので、そもそもそのイライラはそちらの感情であることを伝えたところ、もう食事の話は終わったことなのに、お前がまた持ち出した、と怒鳴り始めた。

 

お前がいるからわるい(あたしのマンションだし在宅勤務中だしなー・・・)

「だいたいおれは、一人だったらそんなに毎回食事に時間はかけなくていい。テキトーにすませられる。毎回毎回お前と一緒だから気を使って時間を使わないといけない。一人だったらこんなことにはならない」「いつもいつも、仕事から帰ってきたらお前がいて、おれは一人になれない」

 頬に息と唾とがかかる5センチぐらいの距離から、目をむいて怒鳴られた。クソが。とも続けられた。そしてまるで自分に言い聞かすように、俺は正しいから俺のやりたいことだけをやる、と言い放つ態度は、悪魔に呪われているかのような姿だった。

「わかった。」と私はそのへんにあった雑誌を足元に投げつけたが、こんなに心の中は冷静でいられるのか、と我ながら驚いていた。その後、彼はその雑誌やら他のものやらを粉々に破り散らかし、部屋中に何かの物体がぶちまけられ放置された状態がずっと続いた。

 

あんたも家におったやろ

 私が家にいるのは、在宅勤務になったので、当然のこと。

 コロナでもなんでもなかった3年前、相手は自分の意思で気に入らない職場を離れ、その後まるまる1年間、仕事をしていなかった。なぜしないのかも私に言わなかった。ただ、家にいた。一人になれず私もストレスだった。ヒトに愚痴は言うまいと決めていた。仕事の帰りにわざわざカフェに寄ってぼーっとしてから家に戻ったりしていた。

 そのまま、ハワイに旅行することになった。貯金がいくらあるのかなど、私からは尋ねなかった。出発の成田空港で、残金が千数百円しかないから、お金を貸しといてほしい、と言われた。帰国しても、仕事をしようとしなかった。

 尻を叩いて、話し合って、外に行かせた。新しい仕事をやっと見つけてきた。やれば認められ、契約社員としてある程度とりまとめ役的なポジションについた。そこで今度は過剰とも思える自信に満ちた発言の数々が始まった。

 理のある正義の味方的な論理も入っているので、信用も得ているところはあるし、闘いたいエネルギーを持っている時期でもあるだろう、とも考え、そうそう抑えつけるようなことは私も言わなかった。彼は私よりずいぶん若い。

 

敵じゃないのに敵視され続け・・・

 だから時々、家で話をする中で、私も「まぁ根本的に違う相手とあまり闘ってもしょうがない」となだめる程度のことはしていたけれど、それ以外は、いつもまた職場のバカな上司が、こんなバカな発言をしてまったく世の中やってられない、という、いわば自分を確認するためのような話がずっと続いていて、私はまぁ、あまりおもしろくはなかった。

 でも自分で気づくしかないし、と思って黙って聞いていたところは多い。

 相手のイライラが大きくなると、私が諸手を挙げて賛成していない空気にもイライラするようになった。

 いつも買っていたワインの通販で、また何か選ぼうよ、とノートパソコンの画面をみていた瞬間、パタッと画面を閉じたと思うと「なんで返事をしない!?」とイライラと足先を動かし始めている。機嫌よく独り言のような何かを口にしていただけだと感じて隣にいただけだったので、寝耳に水にも程がある。

 「私はあなたの敵ではない」と、同じような場面のたびに何度となく伝え続けた。

 これまでだったら、私もいちいち相手に反応し、感情の渦の中に互いに飛び込む繰り返しだったけれど、私もずいぶん変わってきているという自覚がある。彼のイライラの根源には、その距離感への焦りも含まれているのだろう、とも感じ続けてはいる。

 

 自分が機嫌を悪くした話題の一つだから、ということなのだろう、ワインのことは二度と自分から話題にしない。ワインは買わないまま。そうやって一つ一つ、楽しく動けるところが少なくなっていっていた。

 

安ホテル生活

 そんな中の、10月後半。息と唾とがかかる5センチの距離からの「お前がいるから」イラつくのだという怒号であった。

 コロナのイライラから始まって、6月だったか、いつだったかもう覚えてもいないけれど、相手は、私との諍いで一度奇声を発した。10月に私を怒鳴りつけた後、それと同じ奇声をまた発した。

 あまり、自分の意のままに周囲を動かすのに叫べばよいというものではないけれども、私は相手の一人になれなかったことによるストレスを最大限に汲み、「一人の時間を過ごしてください」と伝えて、仕事の道具を持って近くの安いホテルを探しては2泊3日ずつぐらいして戻り、洗濯して自分の部屋に干す、というのを何回か繰り返した。午前中のオンライン授業をホテルでやるためには、その日を挟んで2泊とっていないとできないのだ。

 

家庭内別居(狭いのによ・・・)

 さすがに仕事に支障をきたすので、その後はうちの中にいるようにはしたけれど、食事は完全に別のまま、部屋もトイレも私は掃除しないことにしていたので、荒れ放題。相手が使った皿類や、毎晩何本かずつ飲み続ける酒類のビンや缶は、シンクやその周辺に3週間放置。毎晩、何か出来合いのものを買ってきてはチンしてテレビを見ながら食べ、その直後にトイレに行ってはゲーゲー吐くという行為を繰り返していたようで、トイレットペーパーの減り方が半端なかった。

 私は冷静を心がけ、朝、顔をあわせたような時には、おはよう、と言うようにしていた。11月は、ただそうやって過ぎた。別々に仕事をして、別々に食事をし、別々に寝ていたら、ほんとうに相手の存在というのは、消えていくものだと実感した。

 ほんの少しずつむこうも挨拶するようになってきた12月初旬、少しずつ少しずつむこうがメールを送ってくるようになった。私もそれに返した。10月の乗馬の帰りに行くはずだった中国料理の店に行かないか、と誘ってきたので、うん、と返信した。店の前で待ち合わせた形になって、久しぶりに話した。

 

再会(か?)

 その日は、相手は「全然関係ない話だけど」と言いながら、どうでもいい話をし続けた。その日は吐かなかったようだ。翌日は、まるで怒鳴りちらかして言ったことを忘れたかのように、食事を共にする発言をするようになったので、流れに任せて、久しぶりにテーブルに並んで食事をした。

 

 その夜、食事が終わってから急に、「理不尽な感情のぶつけ方をしてすみませんでした。」と始まった。

 意地を張るタイプなのに、私が感じていたことそのままを口にして謝ったので、よほどの自覚があったのだろうと感じたし、私も自分の感情を冷静に保ったままでいることができて、良い結果に戻ってよかった、と、一瞬感じた。

 

しかし、困惑する理屈が待っていた。

 

ひっかかる点

謝り方は、こうだった。

「自分の態度はコロナのイライラから始まったのだけれど、それに加えて、

 a. 好きな人ができて、

 b. その人に気持ちを伝えたけど、受け入れてもらえず

 c. そのイライラをサンファル(私な。)にぶつけた。

 d.  abcが理不尽だったので、謝る。」

 

・・・・・私がひっかかっている点は、どこか。

 

aは、しょうがない。

それで共同生活が解消されるのは、どうしようもないことだ。

暮らし始めた時から、そういうこともあるだろうとは思ってもいた。

cは、済んだこと、という感じか。謝ったし、と。

・・・dって、謝ったのか?

abcを伝えることで?

 

bは何か。

それを選ぶのは個人の自由だ。

bの判断、行動に移ることを選んだ段階では、

これまでの生活が同じように続くはずはない。

少なくとも精神面では。

と思う。私は。でも

違う

という。

 

bで受け入れられなかった。新しい段階に移れない。

百歩譲って、そこで思い直し、これまでを見つめ直し

心から(が大前提ですが)気持ちを改めたのは本当だとしよう。

 

なぜ、それをこっちに言うのか。

「言わないのは不誠実だから」

 

不誠実はどこ?

サンファル「bでうまくいけば並行生活を続けていく気でいたことは、不誠実ではないのか」

 

「伝えない方が不誠実だ。これまでもこれからもそうする」

 

これからも・・・?

 

サンファル「外でうまいことやろうとしてできなくても家に帰ってくればいい、という保険のかけ方はおかしい。

 理不尽に感情をぶつけられるのも嫌だが、理不尽に甘えられるのも好きではない。

 そんな発想の人とは一緒に暮らせない。

 もっと大きいものに向かって学び合うことができる相手なら一緒にいる意味があると感じるけれど、そうでない相手との生活なら、私には無意味だ。」

 

おわかりでしょうか。相手には、

 (1) サンファルと暮らすことと

 (2) 好きになった人に気持ちを伝えること

は、別のことだと。

 

なぜなら

 (1) サンファルと暮らすことは、創作していく上で大切なこと。

 (2) 恋愛は、大したことではないから。

 

「創作」がスムーズにできている相手でもないわけですけど。

(そこには、「意識で世界が作られている」ということを全く信じない(それはお前の ”傾倒” している人たちの主張であって、俺はそんなふうに思って生きていない、と今も言い放つ)相手との、深い溝があるわけで、気が遠くなる。でもそこが埋まらないと創作はできないと私は思い、解決への実現をあーでもないこーでもないと画策してきた。)

 とにかく相手の主張は、abcdと(1)(2)との、掛け算から出ているものらしい。

 外で新しい嫁さんと子供作ったのに夫婦漫才しつづけてた人たちおったよな。そういうの私は嫌ですし。

 

「好きな相手に気持ちを伝えたということが悪いこととは思っていなかった。保険をかけたとも思っていない。でも、それがいけないと言うなら、これから自分を戒める」

 

 ”いけないと言われたから”とか、”戒める” とかいうのは、自然な感情がありながら、私のせいでそれを抑えつけるということ。それは将来また溜まって私に対して爆発する原因となる。私が "悪いことだ” と言ったからしない、と明言する発想はおかしい。

 

コバンザメのヒレがくすぐったい

理屈では、都合のいいことを言う奴だと思う。

ほんとうに感覚が違う相手ならなおさら、切り捨てる方が簡単なことだ。

「悪いと思っていなかったことだが、いま悪いと言われたので、それを戒めると言っているだけだ。恋愛なんて大したことではない。そんな気持ちを戒めて生きるのは難しいことではない。サンファルと暮らすことと、他の女とうまくいくことは、違うことだ。

 自分があんなに理不尽なことを言った後なのに、自分のメールに最高の返しをしてきた時、ほんとうに悪かったと思った。自分にとって、こんなにセンスの合う人はいない。そんな人と、離れて暮らす理由が無い」

 

 良いように言えるものだ。外で発情して満たされなかった分をうちで発散していたと言われても仕方のないことをしちらかしていたのだが。

 レンアイカンジョーというものが根底に微塵も持てなくなっているのに創作に関してはこいつと一緒にいれば何かおもしろいことが体験できそうだ、という発想でついてこられるのは、腹にくっついたコバンザメの背びれでくすぐったいだけの足手まといでしかない。

 

だから、切り捨てるのはある意味、理屈の上では簡単なことなのだ。

今見つめたいと思っているのは、もうすこし違う角度から。

 

ほんとうの自分を垣間見たいだけなのです。

切り捨てたいと思う衝動は、

・abcdと(1)(2)の掛け算を急に浴びせられての一時的な苛立ちに過ぎないだけなのか、

・外での発情をうちで処理しました、という点の生理的に気持ち悪い部分が許せないのか(それが一時的なもので時間が解決するもんなのか、体質的に無理なのか)

・人の過ちを一滴も許す気の無い冷徹さがまだ残っているがゆえの、揺るがない論理なのか(果たして、相手のその「発想」が「一時的な過ち」で済むのか、というところの見極めも大きな課題だけど)

・出ていくならさっさと出て行ってほしい、すっきりした正月を過ごしたい、ものを放置、溢れさす人間がいなくなれば、さぞすっきりできることだろうと本気で夢想する

 

悩んで引きずる気持ちは、

・この年末の、自分も特に多忙な今月中に、わさわさと出て行かせるのが煩わしくて、もう少し先延ばしで様子を見ようとしているだけなのか

・ほんとうに相手の宣言通り何かが変わることに1ミリでも期待したいところが強いのか。

 

そしてそれは

希望ゆえか、寂しさへの不安ゆえか。

 

その希望というのは、

今まですべての人間関係を「また失敗だった」と感じ続けてきた自分を終わらせることができるのではないか、という期待。

 

それと同時に抱える不安は、

その希望を持とうとしたばっかりに、もっと先になってやっぱりあんな発想の人間が変わるわけがなかったじゃないか、と結局傷を大きくすることになった自分にうんざりしてしまうのではないか、という不安。

 

希望に賭けたいと思う気持ちに、寂しさを避けたい下心が働いてはいないか。

 

ひっかかっている点は、どこなのか?

ひっかかっている点は、どこか。この一点だ。自分問うている。

パートナーとのすれ違い。

相手が募らすイライラ。

解決できたかと思ったら、一瞬にしてもっと根源的なところへ展開。

長くて短い道のりを述べる。

 

 

最後の日常生活 

 10月中旬。

 パートナーと湯布院に行った。

 画廊で、良い絵をたいへん破格の値段でお譲りいただけた。そのお礼状を書こうとしていた。

 乗馬にも行った。馬との呼吸が合ってきた感じがあった。私の方が褒められることが多くなり、相手はちょっと前から、不機嫌な空気でいることが多くなっていた。

 始めた当初は彼のほうがよく褒められていたので、私はそういう関係にあるほうが安心できると感じていたけれど、最近は、同じ馬に対してでも私のようにうまく扱えないこともあり、向いてないとすら言い始めていた。同じ馬場にいても、一緒にレッスンを受けている嫌なおばさんが嫌なことを言ってきやがった、とパートナーが一人苛立っていることも少なくなかった。

 仕事にしても何にしても、いちいち敵対しようとするから、相手もそういう態度となるのだと私は感じていたが、そう伝えることすらもギスギスしていてできず、言葉を選ぶことがとても多くなっていた。

 

 乗馬の帰り、私には夕方すこし予定があったが、午後6時半以降は自由に使える、と伝えると、食事はどうしようか、という自然な話題になった。そしてパートナーは自分から、よく行く中国料理店の名を出したので、それもいいねと言いながら帰った。

 

不条理な一場面

 帰ってくるとピザの宅配のチラシが一枚入っていた。その写真を見た途端、「ピザでもいいな」と言う。ふつう、言ったことを後で変えると嫌がるのに、急にそう言うので、ピザといえば少し前に行ったイタリア料理の店がおいしい上に気前が良く、次回ちょっとしたピザ一枚サービスという楽しい小さなチケットをくれていたのを思い出して、じゃああのチケットを使おうか、と言ったところ、「そんなに立派なものじゃなくていい。もういい。意見がずれたから、今日の話は全て無し」と、どこで食事をするわけでもなく、ただ険悪なイライラだけが残された。

 ほんとうによくある、ひとりでイライラを露わにする態度だったので、そうですかと放っておいたが、回答していなかった国勢調査が再送されてきていたりもして、本人に聞かないとわからない項目があったり、絵のお礼状を急いで書こうと言っていたタイミングでもあったので、気分を変えてそういう話題について声をかけ誘ってみたが、情報が必要ならこれを見ろという態度で黙って会社の封筒をテーブルに投げ出すやら、お礼状を書きたいのはお前のペースだ俺は気分が悪いのだから書きたくもない、などと言い出すやらで、どんどん悪化の一途だった。

 理不尽さが多すぎるので、そもそもそのイライラはそちらの感情であることを伝えたところ、もう食事の話は終わったことなのに、お前がまた持ち出した、と怒鳴り始めた。

 

お前がいるからわるい(あたしのマンションだしなー・・・)

「だいたいおれは、一人だったらそんなに毎回食事に時間はかけなくていい。テキトーにすませられる。毎回毎回お前と一緒だから気を使って時間を使わないといけない。一人だったらこんなことにはならない」「いつもいつも、仕事から帰ってきたらお前がいて、おれは一人になれない」

 頬に息と唾とがかかる5センチぐらいの距離から、怒鳴られた。クソが。とも続けられた。そしてまるで自分に言い聞かすように、俺は正しいから俺のやりたいことだけをやる、と言い放っていた。

「わかった。」と私はそのへんにあった雑誌を足元に投げつけたが、こんなに心の中は冷静でいられるのか、と我ながら驚いていた。その後、彼はその雑誌やら他のものやらを粉々に破り散らかし、部屋中に何かの物体がぶちまけられた放置された状態がずっと続いた。

 

あんたも家におったやろ

 私が家にいるのは、在宅勤務になったので、当然のこと。

 コロナでもなんでもなかった3年前、相手は自分の意思で気に入らない職場を離れ、その後まるまる1年間、仕事をしていなかった。なぜしないのかも私に言わなかった。ただ、家にいた。一人になれず私もストレスだった。ヒトに愚痴は言うまいと決めていた。仕事の帰りにわざわざカフェに寄ってぼーっとしてから家に戻ったりしていた。

 そのまま、ハワイに旅行することになった。貯金がいくらあるのかなど、私からは尋ねなかった。出発の成田空港で、残金が千数百円しかないから、お金を貸しといてほしい、と言われた。帰国しても、仕事をしようとしなかった。

 尻を叩いて、話し合って、外に行かせた。新しい仕事をやっと見つけてきた。やれば認められ、契約社員としてある程度とりまとめ役的なポジションについた。そこで今度は過剰とも思える自信に満ちた発言の数々が始まった。

 理のある正義の味方的な論理も入っているので、信用も得ているところはあるし、闘いたいエネルギーを持っている時期でもあるだろう、とも考え、そうそう抑えつけるようなことは私も言わなかった。彼は私よりずいぶん若い。

 

敵じゃないのに敵視され続け・・・

 だから時々、家で話をする中で、私も「まぁ根本的に違う相手とあまり闘ってもしょうがない」となだめる程度のことはしていたけれど、それ以外は、いつもまた職場のバカな上司が、こんなバカな発言をしてまったく世の中やってられない、という、いわば自分を確認するためのような話がずっと続いていて、私はまぁ、あまりおもしろくはなかった。

 でも自分で気づくしかないし、と思って黙って聞いていたところは多い。

 相手のイライラが大きくなると、私が諸手を挙げて賛成していない空気にもイライラするようになった。

 いつも買っていたワインの通販で、また何か選ぼうよ、とノートパソコンの画面をみていた瞬間、パタッと画面を閉じたと思うと「なんで返事をしない!?」とイライラと足先を動かし始めている。機嫌よく独り言のような何かを口にしていただけだと感じて隣にいただけだったので、寝耳に水にも程がある。

 「私はあなたの敵ではない」と、同じような場面のたびに何度となく伝え続けた。

 

 自分が機嫌を悪くした話題の一つだから、ということなのだろう、ワインのことは二度と自分から話題にしない。ワインは買わないまま。そうやって一つ一つ、楽しく動けるところが少なくなっていっていた。

 

安ホテル生活

 そんな中の、10月後半。息と唾とがかかる5センチの距離からの「お前がいるから」イラつくのだという怒号であった。

 コロナのイライラから始まって、6月だったか、いつだったかもう覚えてもいないけれど、相手は、私との諍いで一度奇声を発した。10月に私を怒鳴りつけた後、それと同じ奇声をまた発した。

 あまり、叫べばよいというものではないけれども、私は「一人の時間を過ごしてください」と、仕事の道具を持って近くの安いホテルを探しては2泊3日ずつぐらいして戻り、洗濯して自分の部屋に干す、というのを何回か繰り返した。午前中のオンライン授業をホテルでやるためには、その日を挟んで2泊とっていないとできないのだ。

 

家庭内別居(狭いのによ・・・)

 さすがに仕事に支障をきたすので、その後はうちの中にいるようにはしたけれど、食事は完全に別のまま、部屋もトイレも私は掃除しないことにしていたので、荒れ放題。相手が使った皿類や、毎晩何本かずつの飲み続ける酒類のビンや缶は、シンクやその周辺に3週間放置。毎晩、何か出来合いのものを買ってきてはチンしてテレビを見ながら食べ、その直後にトイレに行ってはゲーゲー吐くという行為を繰り返していたようで、トイレットペーパーの減り方が半端なかった。

 私は冷静を心がけ、朝、顔をあわせたような時には、おはよう、と言うようにしていた。11月は、ただそうやって過ぎた。別々に仕事をして、別々に食事をし、別々に寝ていたら、ほんとうに相手の存在というのは、消えていくものだと実感した。

 ほんの少しずつむこうも挨拶するようになってきた12月初旬、少しずつ少しずつむこうがメールを送ってくるようになった。私もそれに返した。10月の乗馬の帰りに行くはずだった中国料理の店に行かないか、と誘ってきたので、うん、と返信した。店の前で待ち合わせた形になって、久しぶりに話した。

 

再会(か?)

 その日は、相手は「全然関係ない話だけど」と言いながら、どうでもいい話をし続けた。その日は吐かなかったようだ。翌日は、まるで怒鳴りちらかして言ったことを忘れたかのように、食事を共にする発言をするようになったので、流れに任せて、久しぶりにテーブルに並んで食事をした。

 

 その夜、食事が終わってから急に、「理不尽な感情のぶつけ方をしてすみませんでした。」と始まった。

 意地を張るタイプなのに、私が感じていたことそのままを口にして謝ったので、よほどの自覚があったのだろうと感じたし、私も自分の感情を冷静に保ったままでいることができて、良い結果に戻ってよかった、と、一瞬感じた。

 

しかし、困惑する理屈が待っていた。

 

ひっかかる点

謝り方は、こうだった。

「自分の態度はコロナのイライラから始まったのだけれど、それに加えて、

 a. 好きな人ができて、

 b. その人に気持ちを伝えたけど、受け入れてもらえず

 c. そのイライラを私にぶつけた。

 d.  abcが理不尽だったので、謝る。」

 

 

・・・・・私がひっかかっている点は、どこか。

 

aは、しょうがない。

cは、済んだこと、という感じか。謝ったし、と。

・・・dって、謝ったのか?

abcを伝えることで?

 

bは何か。

それを選ぶのは個人の自由だ。

bの判断、行動に移ることを選んだ段階では、

これまでの生活が同じように続くはずはない。

少なくとも精神面では。

と思う。私は。でも

違う

という。

 

bで受け入れられなかった。新しい段階に移れない。

百歩譲って、そこで思い直し、これまでを見つめ直し

心から(が大前提ですが)気持ちを改めたのは本当だとしよう。

 

なぜ、それをこっちに言うのか。

「言わないのは不誠実だから」

 

不誠実はどこ?

サンファル「bでうまくいけば並行生活を続けていく気でいたことは、不誠実ではないのか」

 

「伝えない方が不誠実だ。これまでもこれからもそうする」

 

これからも・・・?

 

サンファル「外でうまいことやろうとしてできなくても家に帰ってくればいい、という保険のかけ方はおかしい。

 理不尽に感情をぶつけられるのも嫌だが、理不尽に甘えられるのも好きではない。

 そんな発想の人とは一緒に暮らせない。

 もっと大きいものに向かって学び合うことができる相手なら一緒にいる意味があると感じるけれど、そうでない相手との生活なら、私には無意味だ。」

 

おわかりでしょうか。相手には、

 (1) サンファルと暮らすことと

 (2) 好きになった人に気持ちを伝えること

は、別のことだと。

 

なぜなら

 (1) サンファルと暮らすことは、創作していく上で大切なこと。

 (2) 恋愛は、大したことではないから。

 

「創作」がスムーズにできている相手でもないわけですけど。

(そこには、「意識で世界が作られている」ということを全く信じない(それはお前の傾倒している人たちの主張であって、俺はそんなふうに思って生きていない、と今も言い放つ)相手との、深い溝があるわけで、気が遠くなる。でもそこが埋まらないと創作はできない。でも相手はそう思っていないわけだ。)

 とにかく相手の主張は、abcdと(1)(2)との、掛け算から出ているものらしい。

 外で新しい嫁さんと子供作ったのに夫婦漫才しつづけてた人たちおったよな。そういうの私は嫌ですし。

 

「好きな相手に気持ちを伝えたということが悪いこととは思っていなかった。保険をかけたとも思っていない。でも、それがいけないと言うなら、これから自分を戒める」

 

 ”いけないと言われたから”とか、”戒める” とかいうのは、自然な感情がありながら、私のせいでそれを抑えつけるということ。それは将来また溜まって私に対して爆発する原因となる。私が "悪いことだ” と言ったからしない、と明言する発想はおかしい。

 

コバンザメのヒレがくすぐったい

理屈では、都合のいいことを言う奴だと思う。

ほんとうに感覚が違う相手ならなおさら、切り捨てる方が簡単なことだ。

「悪いと思っていなかったことだが、いま悪いと言われたので、それを戒めると言っているだけだ。恋愛なんて大したことではない。そんな気持ちを戒めて生きるのは難しいことではない。サンファルと暮らすことと、他の女とうまくいくことは、違うことだ。自分があんなに理不尽なことを言った後なのに、自分のメールに最高の返しをしてきた時、ほんとうに悪かったと思った。自分にとって、こんなにセンスの合う人はいない。そんな人と、離れて暮らす理由が無い」

 

 良いように言えるものだ。外で発情して満たされなかった分をうちで発散していたと言われても仕方のないことをしちらかしていたのだが。

 レンアイカンジョーというと非常に堅苦しい定義にも聞こえてしまうけれど、そういうものが根底に微塵も持てないままなのに、創作に関してはこいつと一緒にいれば何かおもしろいことが体験できそうだ、という発想でついてこられるのは、腹にくっついたコバンザメの背びれでくすぐったいだけの足手まといでしかない。

 

だから、切り捨てるのはある意味、理屈の上では簡単なことなのだ。

今見つめたいと思っているのは、もうすこし違う角度から。

 

ほんとうの自分を垣間見たいだけなのだ。

切り捨てたいと思う衝動は、

・上のセリフを急に浴びせられての一時的な苛立ちに過ぎないだけなのか、

・外での発情をうちで処理しました、という点の生理的に気持ち悪い部分が許せないのか(それが一時的なもので時間が解決するもんなのか、体質的に無理なのか)

・人の過ちを一滴も許す気の無い冷徹さがまだ残っているがゆえの、揺るがない論理なのか(果たして、相手のその「発想」が「一時的な過ち」で済むのか)

・出ていくならさっさと出て行ってほしい、すっきりした正月を過ごしたい、ものを放置、溢れさす人間がいなくなれば、さぞすっきりできることだろうと本気で夢想する

 

悩んで引きずる気持ちは、

・この年末の、自分も特に多忙な今月中に、わさわさと出て行かせるのが煩わしくて、もう少し先延ばしで様子を見ようとしているだけなのか

・ほんとうに相手の宣言通り何かが変わることに1ミリでも期待したいところが強いのか。

 

そしてそれは

希望ゆえか、寂しさへの不安ゆえか。

 

その希望というのは、

今まですべての人間関係を「また失敗だった」と感じ続けてきた自分を終わらせることができるのではないか、という期待。

 

それと同時に抱える不安は、

その希望を持とうとしたばっかりに、もっと先になってやっぱりあんな発想の人間が変わるわけがなかったじゃないか、と結局傷を大きくすることになった自分にうんざりしてしまうのではないか、という不安。

 

希望に賭けたいと思う気持ちに、寂しさを避けたい下心が働いてはいないか。

 

ゆーりっぷちゅ

 チューリップ柄のスカーフを持っていた。とても幼い頃、幼稚園ぐらいか。

 持て余すほどに大きく感じた四角い布はつるりとしていて、2、3センチほどのオレンジの縁の中に、濃い色の絵の具をぼってり塗った筆のタッチで、びっしりと描かれたチューリップが咲いていた。他の花もあったのかもしれないけれど、もう覚えていない。

 それを襟元にどう巻いていたのか、巻いてもらっていたのか、あまり記憶に無いからきっと重要なことではなかったのだろう。むしろ、深い色合いの絵が大きな一面に描かれた布地という姿はしっかりと記憶に残っているから、広げて眺めることの方が多かったのかもしれない。今も一面に絵が描かれたような広い布地を見かけると、腰に巻くかシーツ代わりに布団に敷くか壁にかけるかという用途は後で考えるとしてつい買ってしまう「布好き」の自分の、原点の行為だったのかもしれない。

 

 とても幼い頃、「家出」という言葉を覚えてすぐのある日、「もう、いえでする!」と宣言した。テレビの近くで、両足で立っている姿だったと思う。何かとにかく、私は本気でプンプン怒っていて、両親は、そうか家出するのか、あははと笑っていた。

 うちは戦前からの旅館を簡易的にアパートに仕立て直したとても古い建物で、両親と弟と4人で暮らしている場所から廊下側に出ると、アパートの人たちのドアの前や共同の流しなどがあって、そこを通り過ぎて、さらに暗くて長い廊下を進んで曲がっていった先が、私のばあちゃんが暮らしている部屋だった。私はいつもばあちゃんのところで遊んでいた。私は、ばあちゃんのところに家出する、と宣言した。

 私は決意のもと、チューリップ柄のスカーフを風呂敷にして畳の上に広げて、タンスの自分の引き出しから着替えの服を何枚か畳んで、対角線上に置いた。一番上には、いちばん好きなピンク色の毛糸のベスト(「チョッキ」だな・・・)のような、袖なし前開きのセーターを置いた。前に並んでいるコロンと丸いボタンもピンク色だった。

 向かい合った角と角を結んでパンパンに四角くなったスカーフの包みを抱いて、親が見守る中、私はプンプンしたまま、ばあちゃんの部屋に家出した。

 

 その先は覚えていない。親もばあちゃんも笑っていたし、それは、おそらくは、ただの微笑ましい光景の一つとしての笑い話だったのだろう。数ある不愉快な記憶の中、その「家出」に関してはそれ以降の嫌な記憶も無いから、きっと暖かく包まれて終わった出来事だったのだと思う。

 

 ここで多分、こういう話は、思い起こせば愛されていたんだ的な?いつの日も一人ではなかった山口百恵秋桜』的な?子供の感情の方が常に浅はかで、親の愛の方が広くて深い的な?必殺、親になればわかる的な?まとめ方に収束していくから、「自分」の感情の方は不完全さゆえだったと気づくのがオトナだという予定調和の中での「良い話」への道筋ができ、「自分」というものが雲散霧消してしまうのだ。

 なぜか今朝、急にこの場面が久しぶりに思い出され、考えた。これをただの微笑ましい光景として終わらすのは、幼い私にとって失礼などころか、私自身にとってはあっちとこっちのパラレルワールドほどに話が違ってくる。

 たしかに私の両親は、社会的な極悪人でもなんでもなかった。だからこそ、それは逆に、いわゆる一般的な社会基準の中で善良に生きようとする、その善良さをわかろうとしない子供が社会的に不完全なのだという、世代を超えた負のサイクルを引き継がせてしまう集団的な罪を、無自覚に作り続ける人たちの一員であった。

 私は今も多くの人がそうであるように、その負のサイクルの中に結局は引き摺り込まれていたため、親が愛情を持って接してくれていたことを認めなければならない、と自分に言い聞かせようとばかりして、ずっと苦しいままでいた。

 それは、あの私の本気のプンプンした怒りが、認められていなかったからだ。怒りの感情はすでにあの幼い私の中に明確に存在していたのだということ、あんなに真剣に怒るほどに、逃げ場のない幼い私は、まだおぼつかない言葉の限りを駆使しながら、しっかり一人で考えようとしていたのだということを、オトナにとっての不完全な子供の感覚が引き起こした不完全な態度として私自身までが、なんとひどいことに、今までずっと、ぬぐい去ろうとしていた。

 あの時の確かにあった自分の感情を、いま自分で認める。

 ああやって怒りはうやむやに押しやられて流されているうち、掃き溜めにたまってゆく。成長の中で言葉を身につけ、時々その感情に至るプロセスから伝えて分かってもらおうと言葉を使うたびに、その言葉の持つ論理性は大人たちがなあなあで笑って眺めていられる許容範囲を超え、脅威となってしまい、お前は理屈ばかりで人間ができていない、と歪んだ角度から押さえつけられるようになり、親戚や外の人に向かって私の存在を嘆かれるようにまでなっていった。

 私は私で、ああまたか、とその言動の動機が見えてしまうから、もう言葉にもしなくなる。ただ諦める。いつからか私は、自分の人生自体が、諦めを感じる場所のように感じ続けていた。

 

 あのスカーフで家出した私の感情の出し方こそ、今の私が思い出すべき行動だ。

 イヤだからイヤだと言う。イヤだと感じた瞬間に、全身で怒った。そしてすぐ行動に移した。その件に関してその後のことを覚えていないのは、それなりにもうそこでスッキリしたからだ。

 家出した私は、何歳だったのだろう。4、5歳かな。自分にまとわりつくイヤな音としてサッちゃんと呼ばれていた長い時間は、まだ始まったばかりの頃。数少ない言葉で、意思疎通もままならない中よくがんばっていた。

 これからのわたくしの、行動指針とさせていただきます。

 あの感情を一人の人格から湧き出たものとしてまず認める。そうしたら、それを深刻なことと捉えることはできないまま流し続けた私の親の役割が、不完全な人間の愛すべき不完全な行為の一つとして見えてきた。

 そう。相手を認めなければ、と言い聞かすより、まず自分を認める。そうすれば、相手を認める意識は、その自然な副産物として降りて来るのだな。 

黒服と指輪ごっつ

猫背について振り返っていたのと前後して、

自分の黒服モンダイについてもあらためて考えた。

 

【後ろへ前進】

思えば1年前まで、私は黒ばっか着ていた。靴も。

油断すると、黒を買ってしまうのだった。

  

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  2018年12月。黒くないのは壁と床と猫の片方。

 

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2019年1月。白黒猫、黒ダチョウBAG、魔法使いのおばあさんと一体化。黒ゆえに。

 

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    2019年4月。正義の味方を守ってやってるところ。

 

それは強迫観念のなせる技だった。

自分はデカい、お尻も大きい、足もデカい、

白っぽい明るい膨張色なんて身につけられるハズもない、

だから締まって見える黒だ、カッコよくきめればいい。

というリクツとなる。

  

黒でやっぱり私の意識はどこか、隠れていたのだ。派手好きの忍者か。

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  正義の味方を守り切ったところ。

 

赤系の黒から緑系の黒まで、

無限の色数がある黒って楽しめるよねーとか

面白くなっていったりしたところもあるけれど、

ま、それは後付けのリクツだ。

  

【アクセも葉隠ツール】

同じ理由でアクセもごつごつデカかった。

目立たせて楽しみつつも、やはりどこか

人の目から自分を隠すための手段でもあった。

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重いネックレスたちを力強く捧げ持ってくれているのは、壁に釘で打ち込まれたアイアン。

 

学生の頃から、化粧はほとんどしないのに

イヤリングはやたら大きいのでユーメーだった。

 

顔の近くに大きいのじゃらじゃらつけてれば、

トカゲの尻尾みたいなもんで、視線を顔から逸らせるからね〜、と

冗談のように言っていたけれど、それは

けっこう本気の言い分なのだった。

 

指輪もデカいのを並べてつけていた。

手がデカい、指が太いから、華奢なのなんて似合うわけがない、

というこれまた強迫観念のもと、

ゴツゴツのシルバーを、両手の、人指し指と薬指に、とか。

 

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    指輪たちが重すぎて、この赤い手はよくひっくり返る。

 

思えば、アクセ、特に指輪は、

私にとって「外向き」のものだった。

 

帰宅するとまずもう無意識のうちに、指輪をはずす。

服は部屋着に着替えずそのまま

他のことをやっていたりすることもあるのに比べると、

指輪はほんっとに無意識のうちに取ってしまっていたし、

休みでうちにいる日はまっっったく着けない。

 

逆に、朝やたらとバタバタ急いでしまって

指輪を着けて出るのを忘れでもした日にゃあ、

もう、一日中落ち着かないのだった。

なんか、パジャマで人前に立っているかのように、気合が入らないというか。

身の処し方がわからない、というほどに。

戦闘モード用というか。

なんか、護符みたいな感覚すらあった。

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タイのカレン族のシルバーをわざわざ溶かして作られたこのシリーズは、完全なる護符。

揺れてアバラにゴツゴツ当たると、マジ痛い。

 

つまりとにかく、一見、人目をひくものを身につけることで

結局、人の目から自分を隠していたというリクツ。

 

隠れつつ、シャレこいていた。

ひっこみたがりの、超・攻めの姿勢とでもいうかしら。  

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   攻めとるなー。2019年3月。

 

何かと、リクツをつけるんだオレは。

自分のすべての動きに、理由を必要としていた。

そしてどんどん直感から遠のいてしまう。

後ろへ前進していたような。分裂。

 

【パターン崩し】

自分というカラダを隠してくれる黒は

家の外にいる間中の拠り所みたいになっていて、

服装の中に黒が入っていないなんて、ありえなかった。

 

それに気づいた去年の夏は、そのパターンを崩すべく、

黒を封印して、

私にとっての黒の対極、ベージュ!で行こうと決め、

サンファルフェミニン化プロジェクトが進んだのだった。

 

となると、本気で黒以外の服が無いので、ゼロから始めたお買い物。

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 2019年7月。ベージュを羽織っているだけでも画期的。

 

一つや二つ買っても、洗い替えが無い、という感じで始まった、

2019年夏(汗)。ベージュ元年。

 

「はじめは黒を少し残してもいいですから」

とはお店の方のアドバイス

ベージュに拒絶反応を起こさせぬための。

 

そうやってゲットしたベージュを羽織って

行きつけの美容室に行き、いきなり「フェミニンにして。」と言ったら

間髪入れず「なんかあったんですか?!」と尋ねられてしまった。

 

んで、あたしをフェミニンにする計画にそやつも巻き込んだりした。

「柔らかく風に揺れる感じですよ、フェミニンって」と

雑誌のモデルさんの写真を見せながら

フェミニン慣れしてない私にフェミニン具合を教えてくれたりもしたなぁ。

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  2019年9月。とうとうスカートも黒から解脱。

 

この頃に久しぶりに会った友達は、

私を見た時、口を開くよりも前に

「あ、黒くない・・・」

と思ったらしい。

 

しまいにゃ、完全に

フェミニンコスプレ↓

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 おほほほほほ・・・・2019年10月。

 

慣れってこわい。

オレって、すぐ加速する。

 

【肉体で、ハートを呼吸】

ハートとか喉とかを開く効果があるという呼吸法を、

最近は続けてみたりしていたところだ。

ハートを開け、とアカシックリーディングで

よくメッセージをもらうし。

 

「ハートを開く」なんていう表現は、なんか、

ぽやっと夢見るユメ子がキラキラつぶやく世界にいるようだが、

ちゃんとリアルに大事で、

世界は私と一つなのだという深い意識まで到達しないとつまりは始まらん

という心の面の話でもありつつ、

実際、「胸(心臓を囲んでいる胸郭)を開く」ことで心の硬さが溶けてゆく

という、肉体とも直結した話でもある。

 

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 このひとは、「ハートを、開くどころか、くわえて恍惚とする」。

 

肉体と感情というのは、ほんっとにつながっているからねー。

「呼吸」もまさにその機能ど真ん中なので、

せっせと呼吸法に励んでいるわけだ。

 

【肉体と感情】

まさに派手忍者パターンに気づいてそこから脱出しようとする

流れの中にあった、まるまる1年前の8月下旬、

人生初の断食をやってたのだけれど、

7日間のうち3日目の朝から脾臓が痛くなった

 

左のあばらの下あたり。

断食終わるまで、ずっと痛み続けた。

 

脾臓は、感情を溜め込む臓器なんだとよ。

断食で体のいろんな眠っていた機能が刺激され始めて、

言いたいことを長年言わずにいた肉体から

感情が排出され始めた痛みだったらしい。 

 

肉体と感情の直結具合の話でいくと、ヨガの本で読んだのだけど、

例えば、いわゆるブリッジをして

胸郭がぐっと広がることで、感情が急に表に出て

制御できず、泣き始める人もいるらし〜。

 

言いたいことを言えず、言っても通じず

形状記憶猫背を抱えて生きていた

私の猫背ばなしにも通ずるところだ。

 

【ハートオープン秒読み】

7月、8月頃にやってもらったアカシックリーディングでは、

やたらと「ハートを開く」がキーフレーズとして登場していた。

 

「親へのわだかまりが解けて、

もともと愛されていたんだと汁おっと、知ることになる」とか。

 

「何かそのきっかけになるようなことが起きる」

と読むアカシックリーダーもいたし、

まさに呼吸法などで

「ハートを開くことを積み重ねていく日々の中で気づく段階が来る」

と読んだリーダーもいた。

 

猫背ライフにさよならすることになってきた

最近の流れと気づきというものも、

まさに文字通りムネを開くという行為そのもの。

 

そういうことが見えていた、ということでもあるのだろうなぁ。

すごく、「流れ」の中にいる感じです。

 

【そして更に、パターンは崩れゆく】

リーディングの中には、

そもそも私には、自分が虚しさを感じると

「愛されていない」と解釈してしまうパターンを持っている、

という見方もあった。

 

そうか。

「愛されていない」のも「思い癖」に過ぎないのか。

 

愛されていないことだけは私の宇宙の大前提とすら感じていたが。

大前提であること自体が、思い癖の正体だからなぁ。

 

そこに気づかせていただけるなんて、

なんとありがたいことでしょう。

 

ぎしぎしに組まれていた積み木の一つを外すように

自分の作り上げたパターンを崩し始めたら、

おお、次から次へと、過去が崩れ去ってゆく。

もう止まらないぜ。

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  きっとこうして巡らす思考も、あれも、これも、一炊の夢よの。

 

sachi-de-saint-phalle.hatenablog.com

さよなら猫背ライフ

 

最近フラメンコとか習ってたりして。

いくつもの気づきやタイミングが合流して、するっと

始めるに至った経緯の話は、

また別の機会においとくことにして・・・

 

で、自分の猫背について考えておった。

レッスンで特にこの頃よく注意されるから。

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 わりと伸びた猫背。 

 

姿勢悪すぎて肩こりこりもいいとこだったずっと以前に比べると

自分の中ではかなりまともに戻って来ていたのだけれど、

やっぱ〜、何よりキリッ!と動いてシャキッ!と見せるメンコ踊りとしては

ぜーんぜん背中丸すぎますよ、という

よりよき姿勢のための、ありがたいご指摘。

 

で、あっほらまた姿勢、あっそうか・・・と

何度も何度もふっ、と肩と胸をそらすその度に、その感覚がどこか、

このところの自分の意識にあった、

生活の中もう一段階「次」に行きたい、でもどうやって?どこに?

という感覚に、すぽっ!と当てはまる感じがある。

ほんと、メンコ習い始めてよかったわー。

これもやはり、大きな流れの一つなのだとよくわかる。

 

【半生の彫刻】

私の猫背は、思えば、

この半生で辿ってきた時間そのものの形だ。

 

小さい頃からずっと

終わらない説教を聞かされ続けた姿勢。

気がつけば、背中と首がバキバキになっている。

 

他にも様々に背中を丸めた時間を、私は渡って来た。

勉強している時の姿勢、

大人のそばで、あるいは一人で、縫い物をする姿勢、

枕元の電気スタンドで日記書くやらラジオ聞くやら、一人の時間を作っている姿勢、

一緒に歩きながら、自分より背の低い人たちの声を聞き取るのに背をかがめた姿勢、

ムネのあたりの輪郭をウヤムヤにしておく姿勢・・・

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 猫背を肯定する猫。

 

そう。背中の問題は、表裏一体、胸の問題でもあったのだ。

 

【ムネ問題】

お年頃でムネが出てきたこと自体が恥ずかしかった。

ムネ問題は、大きい。ムネは大きくないが。

それは、小さい頃から親類親戚の中でも私だけずっと太っていたことと、

自分の女性性を極端に認めていなかったことという、

私の荒んだ心の二大巨穴に関わる。 

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  太っていた私と、女性性を否定する私。
 

そう。ムネが大きくないのは、遺伝的に、親類のオナゴ一同そろって、

なんだかな〜的な態度をとるしかないことだった。

血族の中で太っていたのは私だけなのに、

なんだかな〜の方は私も紛れることなく、立派な一員だった。

 

でも、じゃあ大きければ希望通りなのかというと、

そこがそう簡単にはいかないところで、

私にはそれは「太って見える」という

最もネガティブな発想と直結してしまうことでもあった。

 

豊かなムネがふくよかで女性的だとか、おぉ谷間がセクシ〜!とかいう

明るいポジティブな価値観の方向に、どこか、いききれない。

 

いや、こんな私もはじめはその方向だったというか、

世の中にはその方向しかないものとぐらいに思っていたというか、

あまりに自分のすべてに否定だらけだった過去としては、

”なんだかな〜” なおムネだから人生悲しいのだ、

とまで思ってみたりとかもしていた気がする。

それで、テレビで見たマッサージを「おっ★」と試してみたりとかな(笑)

 

でも、そーじゃないんだよなー、とムネの内ではわかっているから

べつにそんなベタな行動も続かないわけで、ただ、

自分のこのカラダにオッパイぼよ〜んとつけてみた場合の姿が

恥ずかしくて耐えられない、

という感覚。

我ながら、実にフクザツなオトメゴコロである。

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 花言葉は「オトメのオッパイ」。うそ。

 

ほんとうに、どれだけ振り返っても、

私はムネが存在していること自体というか、

オナゴである以上、胸部のあたりに何かあってしかるべきとされている部位

というものの(サイズとか、切除したとかに関係なく)存在自体を、

見て見ぬ振りするかのように

肩を内巻きにして、自分で自分を隠しながら

猫背を無意識に強化していたのだ。ほんにほんに。

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  猫背を肯定し続ける猫。 

 


【ムズムズ来ていた】

今9月ですけど、今年の始め頃からだったか、何か、

また次の段階へ変わるための自分内部のムズムズが始まっていた頃、

無性に感じるようになっていたのが

 ・肌に触れる部分は天然素材にしたい!

ということと、もうひとつ

 ・体の線の出る服を着たら、もっと自由になるんじゃないの?

という直感だった。

 

体の線が出るとはいっても、イケイケ方面とか全身タイツ方面とかじゃなく。

「線を敢えて隠す」というのと反対方向という意味で。

 

カラダの線かぁ〜・・・、カラダの線ねぇぇ〜・・・、っと

思っていたところでやがてコロナ引きこもり期となり、

新しい服を調達したわけでもないままに、

やってきたのが最近の猫背モンダイなのだった。

 

私の猫背は(”わたしのねこぜ” って・・・(笑))、

言いたいことを言えずウチにこもって、

体という自分そのものを隠したい意識を持ち続けているうち

出来上がってしまった、

形状記憶合金みたいなものだ。

形状記憶猫背。

 

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 猫背な猫好きンちの猫の背の向こうで猫背と書く猫のピンバッチ。

 

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 猫背記憶合金。

 

ムネはウヤムヤにするものだと

記憶してしまっていた背中を反らせて

ぐーっとムネを張り、

私のそのまんまが出てていいじゃんけ、と

体の線に沿った服を着よう。

 

それは、世の中から「隠れていた」自分を表に出して

本心そのままに、両手を広げて風に吹かれることなのだ。

 

そゆふうに思いながら、

まぁこれから新しい服を探そう、などとも思いながら、

 

とりあえずの外出にとりあえず今までの服を着て出かけ、

台風以来もう涼しくなっている風を感じながら

歩いていたら、

 

 

あー、

 

のびのびと

 

歩いているわたし。

 

風が

 

気持ちい〜・・・

 

いつだったかアジア雑貨屋で買った

メンズの直線的なぶかぶかゆるゆる長袖シャツと

古着屋で買ったストンとゆるいパンツに、

新しい季節の風が寄って来て、

 

今までと同じように布地の内側にあった肩やムネや脚の線を

ヒュ〜っと軽やかに探し当てて

わたしの体の一番外側に張り付けていった。

 

体の線を隠さない服とは、

自分を隠す必要の無い心で着る服。

風の吹くまま、吹かせておく姿。

 

さよなら、猫背ライフ。

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 「・・・・・・・・。」