ソリチュード論理式

  私は特にこの一年間、いろいろ考えて過ごしてきた。某イングというところでも考え続けたし。ずいぶんと自分を自由にしてやれるよう変化もしてきた。

 

しかし。

悩める根本は、まだ変わらないどころか、深くなった感もある。
 

 

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行きつけの中国料理店、コロナで営業時間短縮 、がらんとした店内、

生ビールは悪くなってしまうから採算合わず、もう置いてない。

嗚呼、もの思ふ日々のこの心、

瓶ビールついだコップの中に浮かんだ白い鳥の如く儚きことこの上なし。

 
 
【私の中の葛藤】
 私の中にある葛藤は、
「人と共鳴したいのに(自分を貫くためにそれを)諦めている」
ということ。
 
 一年前まで、人と共鳴したがるなんて、そんな甘っちょろいのは自分ではないと思っていたけれども、やたらと自分の内部を掘り下げていったら、恥ずかしながら、そうだったもよう。つまり、真の私は、人と共鳴したがりまくっていた。自分の誠意を伝えたいし、相手の誠意をそこに感じたい。その響きあいがあると、無性に嬉しい。らしい。私は。どうも。そこを歌でやりたがるから、さらに悩みが複雑に絡み合うことにもなっていたんだな。
 
 
【ソリチュード論理式A】
今は、歌はおいておく。
共鳴したいのに、諦めざるを得ない、諦めがつきまとう、ということについて。 
 
人と共鳴したい。けれど、なかなかそれができない。こっちの誠意を見せては、相手の態度にがっかりさせられる。
自分の誠意の方を、けれど、捨てるわけにはいかない。
自分を貫こうとすると、相手を諦めざるを得ない。
 
 期待 → がっかり → 諦め → 孤独
 
私のソリチュード論理式。
このパターンの中にいるという自覚はあったけれど、「孤独も幻想」って言うし、そう思いたい。孤独なんて、カッコよくもなんともない。はずしたい。はずせるものなら。
 
 しかし、いろいろ考える指針を求めてたどりつき、例えば、去年の5月から今年の4月までの一年間、腹をくくり腰を据えてご指導を仰いでいた某イングに対してさえも、やっぱりこのパターンで締めくくることになった。日本人講師陣、外国人講師の言動、反応。誠意のなさ。スピハラとも言える言動。終始というほどではないが、後半、終盤、だんだん露呈してきた。
  それはある意味、私にはもうこの星で諦めや孤独を感じなくなることは不可能なのではないか、と思われ、これからのすべてへの意欲低下につながるほどの大きなことでもあった。その人たちの問題というより、私が考えさせられるために、私に起きていることとして。なんかこの世って、もうどこへ行ってもこの程度なのかなー、と。
 
 
【ソリチュード論理式B】
 相手への期待というのは、他者に自分が思い描いたとおりに振る舞ってほしいと願うこと。願いどおりになれば嬉しい。そうならなければ嬉しくはない。相手の言動で、自分が一喜一憂してしまうということ。自分の機嫌を相手にとらせているということ。
 
そんな、外への期待はずいぶんしなくなってるし、もしやっていても、あーまた期待していた、とすぐ気づくから、まぁまぁの速度で期待は外せるようになってきていると思う。
 
でも、ここに来てやっぱりまだ諦め、孤独感が減ってない感じは、なんなのか?
自分の外側で起きたこと、内側の反応。
合わせて考え、並べて見つめた。
「相手への敬意」が、ソリチュード論理式Aの「期待」の位置に入る時に、この孤独感は来る。
 
 相手への敬意 → がっかり → 諦め → 孤独
 
ソリチュード論理式B。
問題は、論理式前半だろう。
これまではずっと、がっかりしたら、相手にそんな高いものを求め ”過ぎ” ていたこっちがバカだった、と「過ぎ」の部分は反省して無くしつつ、「高いもの」はきっとどこかにあるはず、まだ出会っていないだけだと、それを生きる希望として、「次」を探してさまよっていた。ずーーーっと。すべてにおいて。
 
そう考えると、「さまよう」ことすら、希望があったからできたことだったのか。
希望が消えると、ほんとに、止まる。
行きたい方向にそれを理性で抑えるような逆の力も働くから動けない、それが葛藤だと認識したところから某イングで考える道も始まったはずだったが、それら両方の力自体が消えた感覚のほうが近い。引っ張り合うこともなく、ただ停止してしまう感覚。
これでよい筈がない。
どうしたらいいんだろうか。
 
 
【村長を尊重する】
 全幅の信頼を置いて尊敬申し上げていた村長さんが、
ある日ヒトとしてしょーもない言動をしたとする。
ヒトとして。
村長として、ではなく。
 
村長もヒトなんだから、そうそう
いつも自分の思い描いたとおりのふるまいだけを
してくれるわけではない、
だから自分の心の方を広く持て。
 
わかるけれど、そんだけかなーヽ(´▽`)/
村長を尊重するとは、それだけのことなのかなーヽ(´▽`)/
 
 村長が、村のことで話しをしに来た村民に、ひとり感情的になって暴言を吐く。後で我が身を正当化する言い訳したりとか。
 村長が村議会の準備に全く時間をかける気が無くて、会議開始直後からグダグダ。言い訳だけは多い、とか。
 これまで名采配で数々の困難を解決、信頼を得てきて再選されていた村長が、急に気分のムラで(村だけに((((;゚Д゚)))))))! )チョー身勝手、感情的な判断を下し、それを大成功だみたいにシラバックレるとか。
 
私の中ではつまり、現村長がそういう振る舞いをするたびに、村長もヒトだもの相田みつを、と言い聞かせ、新しい村長を選ぶやら、新しい村を探すやら、していたわけだ。 
 
 けれど、みつを100パーの見方で村長をヒトとして村長するおっと、尊重するだけでなく、その人の手腕、才能、人柄のような部分への敬意もあってこそ、村長は村長然としていられるし、そこの村人たちは心の底から安心し、信頼のもとに日々を過ごしていられるものなのではないだろうか。
 
 無意識に役割を押し付け合い、背負ってしまう社会意識は憂いを作るもとだが、自由意志による役割というのは、社会的動物としてのヒトが理想的に安住できる文明とか文化の一部なんじゃないかと思うんだがなー。
 
そこに生じる(ように思われる)「敬意」を、どう扱えば
ソリチュード論理式Bを導かずにすむんだろうかしらららー?
もう、歌っちゃう┐(´д`)┌
 
 
【歴代がっかり村長】
ヒトである不完全な部分はわかった上でなお、
そのヒトに備わった個性や才能みたいな側面も捉えて接する時に持つのが敬意であり、
そこがヒトの世の美しいところなのではないか。
私がずっと、ほんとうは接する人々すべてに対して
求めてきているのは、そこなのだ。
 
今まで私が本気でがっかりしてきた村長たちというのは、
私のその接し方の中で、ぽろぽろと村長の座から
剥がれ落ちていった人たち。
 
両親も。
大学院で指導を受ける立場にあった教師や先輩たちも。
結婚するつもりだった人も。
打ち解けて話したことのある友人たちも。
ASKAも。
CHAGEはちがうよ。CHAGEはすごいよ。
 ASKA村長が剥がれ落ちていったのは、
 報道なんかより後のことだよ。
 私の名誉のために言っとくよ。
 やらかしたからじゃないよ。
 復活の歌が全然復活になってなかったからだよ。
 何度も言うよ。
 おれは確かに、君を愛してたんだ。
 ここじゃもうやめとくよ。)
某イングも。
 
大前提として「敬意を払う」対象だった相手が、
想定していたレベルより甚だ低かった、
その程度だったのかよ・・・
という現実にがっかりするということは、
「想定するな」
ということになってしまわんかな。
「敬意」自体が、「幻想」だということに。
 
他者に一切の敬意を払うことをせず、
自分のうちに向いておくしかないことになる。
自分の世界は、自分の思いで作られるというのに。
 
「共鳴したいのに(自分を貫くために)諦めるしかない」
という私の葛藤は解消されない。
 自分は自分、と思ってくだけでは解決しない。
 
 
【違うよって言っておくれ】
ちがうよ、と誰かに言ってほしいわー。
この論理式の間違いを、ひゅ〜と紐解いて欲しい。
 
私はヒトに敬意を払い続けたい。
私は誰かにずっと敬意を払っていたい。
ただ身を預けるかのように。
敬意が幻ならば、希望が無い。
 
結局、「ヒトは孤独」が結論なのかもしれない。
「孤独は幻想だ」とテキトーに言い放ったどなたかの間違いだった
というだけなのかもしれない。
 

この星で私はどこまで生きられるだろう。

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嗚呼。白き尾羽がやうやう溶けてゆく。

儚きこと、私の心の如し。

 

 

 

 

 

【夢note】大濠公園のハウステンボス

 大濠公園の、お濠を背にしたぐらいの場所に、大きな2階建(?3階建だった気もする)の、木造っぽく見せて焦げ茶色のペンキでベタベタ塗った板を貼り付けたような感じの、新しい企画モノっぽいホテルのような、不思議な総合施設が建った。

 安っぽいオランダ村みたいな景観になっている。正面の外に立って見上げたら、各窓から、オープニングの体験サービス的な募集に応じた人たちとかスタッフの女性たちとかが、一つの窓から一人ずつ、観音開きの戸を開けて外に向けて立っている。三角屋根に、向かって右側にもう半分、屋根がギザ、とくっついたような、1.5個分の屋根幅分の建物。

 

 なんとなく中に入って見たら、すごく綺麗で広い。内部を親切に説明してくれる男性。私もちょっとそれに合わせて、興味を示しながらほう、ほう、と聞いている。

 トイレに行こうとしたら、間口は狭いけれど、上から這わせる植物なんかで飾られた白い入り口の表示が、男女の別かと思ったけれどなんとなく意味が合わない。

 あれれ、と、どちらに入ったらよいのか迷った瞬間、はじめ女性用かと思った方から男性(青い上下、上は半袖の、お医者さんの姿。ここには病院も入っている)が出て来て、また、あれれ?となったら

「こっちは男性単数用、隣は男性複数用ですよ」

と教えてくれた。文法みたいな区別になっているのだった。

 よく見ると、そのもうひとつ隣に表示のない入り口があって、そっちが女性用だった。そこから入ると、また広く明るい総合的なスペースが広がっていて、ただのデパートのフロア並みに、かわいい雑貨があったり、家族連れの人たちがうろうろ歩いていたり壁に作り付けのベンチに腰掛けていたりして、トイレ自体はその広い空間をたっぷり楽しんだ後にたどり着ける端っこにある。

 文法トイレに、デパートトイレ。トイレの概念ぶっこわしトイレだった。

 

 雑貨もふつうに楽しいものだったけれど、そこの施設の中ではいちばん一般向けという感じの普通の場所で、また違う場所には何か作っている工房というか、もう工場ぐらいのしっかりした規模の設備も入っている。なんとなく入った施設だったわりには、かなり私好みで、いろいろ興味津々で見学している。

 工場みたいなところとはいっても、すぐ近くに喫茶すぺーすのような一般の人たちがくつろぐところもあるし、窓からは夜景が見えているし、やはり娯楽施設としての性質が基本。

 作業用のブースとして背の低い仕切りで分かれていて、皆それぞれ違うことをやっている。私が立っているブースの左隣には人が何人も固まっていて、何かの演歌歌手みたいな女性の、衣装だったか、宣伝ポスターだったか、そういうものも目に入った。何かそれに関連したことを集まってやっている感じ。

 右側には、30代ぐらいの男の人が黙々と作業をしている。ウルフルズのジョンビーチョッパーみたいな顔の静かな感じの人。キーンと丸い刃が機械で回っている正面で椅子に座って、割れやすい分厚い陶器を切断している。すごい埃。

 その陶器は現代には無い技術でできていて、手で簡単におせんべいのようにぱきっと割ることができる。私は以前にその陶器のことを聞いたことがあったけれど、なんかどういう性質だったか思い出せない、とか言っていて、おせんべいみたいにほら、と5センチ×8センチぐらいの形にぱきっ、と割って見せてくれたのを見て、そーだった!それそれ!と騒いで喜んでいる。

 私の真ん前のブースには誰もいないけれど、A2ぐらいのサイズかな、大きめのパシャパシャいう紙が何枚も何枚も重ねて置いてあって、見てみると、いろんな設計図やなにか楽しい人形みたいなもののしくみの解説になっていて、私はそれらを見て楽しんだ。

 やがてそれは友人のりえこのブースだったとわかって、私が来るときにはりえこは席を外しているから、私が見て楽しむために置いといてくれたのだと、後で説明してくれた。説明しているときのりえこは、とてもきれいな丸顔で、やさしい表情だった。

 右隣の黙々と作業をしていた男性に、説明してくれるように頼んどいたのに、とりえこは言ったが、その人はその時ちらっとこっちを見てすこしニコっとしただけで、また作業を続けた。こちらから声をかけて尋ねればよかったのだね、とは言ったけれど、もうひとりで設計図を見るだけでじゅうぶん楽しんだから、その日はそれで帰ることにした。

 あれは大濠公園なのだった。不思議な楽しい施設だった。

今年の桜

ただでさえ妖気を発する桜たち。

今年は、人が寄りつかない桜だった。

散ってしまった後になって振り返ると、なおさら

季節ごと、すべて幻想のよう。

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非常事態とか宣言されたりするよりも前。

花見客は必ずいたはずの、桜満開の冷泉公園近く、

すでに人影はまばら。皆どこへ消えたのだ?

私はその時、帰宅中。夕方。

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うちに向かう歩道の先に、2軒並んだ飲食店の前、

急場仕立ての手書きのテイクアウトの札と台を並べて

マスクをつけた店員さんが「テイクアウトありまーす!」と叫んでいる。

ずいぶん手前から感じる「人が来る・・・!」という視線。

 

それ自体が虚しくて、いったんうつむいて通り過ぎ、

でも、だいぶ行ってから、引き返した。

「・・・なんか下さい。」

 

向かって右の店に、じゃあ、キーマカレーを。

うどん屋に、カレーとかあったのか)

左の店には、じゃあ、焼き鳥5本セットを。

「店の中で焼いて来ます、10分ぐらい待ってください」

(テイクアウトの要領、ゼロ)

 

じゃあ、待っている間、回れ右、

立ってる店員さんたちと一緒になって叫んだ。

「テイクアウトありまーす!」

人影まばらな向こう岸の歩道に向けて。

お櫛田さんの桜が、違う次元から優雅に舞い散る花曇り。

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==========

今年の桜は、誰の桜だ

あの、お供え籠のように広げた月は、いったい誰の満月だ

 

私たちは、思い出した

花は ただ花なのだ

月は ただ月なのだ

今も むかしも 来年も

 

私はとうとう、歌い出した

人は 人であればよい

嘘は 崩れていけばよい

やりなおせるなら 泣けばよい

戻らぬものは まぶたの中

こぼれ落ちたら 土に返るさ

土に還るさ 土にかえるさ

 

暗く湿った 根の先に

溜めてしまった 毒のようなもの

涙のような 欲のような

翼をいたわる 枝の先に

結んだつもりの 知恵のようなもの

邪魔なだけの 邪魔なだけの

 

どこまで分け入ったら 触れられるのだ

「うつくしい」と つぶやけるものに

呼び合う魂が はしゃぎたがって

「うつくしい」と 寄り添える誇りのようなものに

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【アカシャに訊け!】2020年1月

アカシックレコード君の名は。

アカシックレコードというのが、ある。

という前提で始めます。

地球をとりまく情報網。

地球だけでなく、生命体がある星はすべて

この情報網に包まれてるのですって。

私たちすべての記憶。

 

アカシックレコードという言葉は、

『君の名は』でちらっと出たこともあって

急に市民権を得て来たらしいのね、知らなかった。

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DVD『君の名は。』より)

 

【片鼻呼吸=つながりやすくなる準備】

アカシックレコードを読む練習を

ぼちぼち、たまに、やっているのですけれども、

アカシャ(アカシックレコードがある

スペースみたいな感じかね)に入る準備の

一つでもある片鼻呼吸というのが、

私にはやっぱり合っているようだ。

 

片鼻呼吸は退屈だという人もいるけれど、

私は最近は40分やるようになって、

やっぱり気持ちが良い。

 

 

私の「片鼻呼吸あるある」は・・・

 

なんだか急に、感涙にむせぶ自分の姿が見えて

その自分から呼吸中の自分がもらい泣きをして

鼻がズルズルになって呼吸ピンチになったりとか、

 

これまでの人生、

職場や学校で出会ってきた

好きでもなんでもない人たちのことが次々に浮かび始めて、

それぞれとぎくしゃくするやらなんやらあったけれど、

私の成長にそこまでしっかりつきあってくれていたなんて

一人残らず、みなさん、ありがとうございます・・・!

と深く深く感謝して涙したりとか、

 

あるいは、ただ無性にあくびが出続けて

涙と鼻水でズルズルになったりとか。

 

これらの「あるある」状態は、

アカシャとつながった(少なくとも

つながりかけてはいる?)状態らしい。

アカシャとつながっている状態というのは、

歓びを放射する魂意識が優位になっている状態とも言えるから。 

 

日常生活の中では、肩鼻呼吸だけで終えたら

雑用に戻る、っていうことも多いけれど、

今回は、呼吸の後、久々にアカシャに入る練習で、

自分のことを尋ねてみた。

 

【アカシャに訊いた!】

やっぱりなんとなく、自分でただ考えているだけより

しっかり意図してアカシャに尋ねると

いくつかの質問に対して、もらえる答えのそれぞれが

ちょっと深いところでつながっていく感覚がある。

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DVD『君の名は。』より)

 

 

以下は、そのメモ。 

1。体のために気をつけることは?(食事とか)

( ↑けっこう、他の人たちとリーディングの練習をしていると

 よくある質問のようなので、私も尋ねてみた)

 

<今の私の体のために摂ると良いものって、何ですか?>

青菜(ほうれん草のおひたし)

ドライフルーツ(特に、500円玉大の赤い実)<なんだろ?>

バナナ、ブルーベリー(生)

<ふーん。>

 

<お酒、毎日飲んでますけど、いいですか?>

お酒もべつに、気にすることはない。

大事なのは、「よく噛んで、味わう。楽しむ」こと。

あとは、べつに。今までどおりで。

<よっしゃー!>

 

<他に、健康のためにやるといいことは?>

ストレッチしたり、柔軟性を高める。

肩と首筋のコリをとるよう意識する。

<あー、今はだいっぶいいけど、以前から

肩とかガチガチだったからねー>

 

それは、リラックスにつながるから。

人目を気にしている自分の解放でもある。

<ん?これは、最近ラジオで聞いたことだなー(汗)

でも、私がアカシャに尋ねている ”今” への答えとして

この説明が来たと感じたのだから、

きっと私のアカシャが今おしえてくれたことなのだ(汗)!>

( ”私のアカシャ”って・・・何だよ)

 

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(ほんの数ヶ月前まで、すがりつくようにお参りを続けていた弁天様。

 今年から新たな気持ちで、またよろしくお願いいたします。)

 

あと、首回り、襟周りのすっきりした服を。

とにかく、”すっきり” させる。

体の線が見える服、ピンクベージュの淡い色のセーターとか。

 <ほう、ほう。>

 

体の部分、部分に必要以上にコンプレックスを持ちすぎていて、

これまで、それを隠す服が多かった。

むしろ、あるがままを出す。

<えー・・・

線が出る服だけれど、

締め付けるような緊張感のあるものでなく、

自然素材で。ジユ〜!な感じで。

<・・・は、はい>

 

ただあるがままを見せることに慣れていけば、

「人目を気にすること(=アタマの中でウジウジ考えること)」

が、一つ減る。

 ↓

すっきりする。

<キーワードは、”すっきり” なんだな。>

 

それによって肩の凝りが少なくなっていく、という相乗効果にもなる。

そうすれば、体に良いものとして

意識的に摂った自然な食べ物の成分が、

ほんとうに、指先、毛細血管にまで行き渡る感覚が持てて、

ますます自然と一体化できる。

<あー、「自然なものを食べて自然と一体化させる」って

私にはとても大切なポイントのようだ。>

 

ずっと前のスクールで、

「サイキックだった過去生」にまずつながって

その時の能力を今生に受け継ぐための

アドバイスを尋ねる、という練習をしたときにも、

同じこと言われたのだった。

 

その過去生での私は、男性のサイキックで

相談者を森のある決まった場所に連れて行って、

その時の動物たちが示す反応を読み解いて

相談者の知りたいことを伝える

という「つながり方」をしていたようだった。

(スクールの後のおしゃべりで

 他の人たちがそこにつながって

 補足してくれたところによると、

 そのサイキックマンは、

 まるで今の研究者のように、

 自分が知りたいことを探求していくという目的の方が大きくて、

 そのための資金をしっかりお上から得つつ、

 そういう他者への貢献もやっていたそうなのね。

 科研費ってやつだ。

 こんなに科研費に興味の無い私なのに、

 科研費ちゃんと取ってたのか、過去のオレは!)

 

その時のサイキック能力をこの転生で使うためには、

”より自然に近いものを食べて、

体をもっと自然に近づけなさい” って

言われていたのだった。

意識してはいたけど。引き続き、意識しとこ。

 

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(よく見たら、弁天様の石灯籠のデザインはなかなか渋い。

 この月、二十三夜ぐらいか。)

 

2。始めたてホヤホヤの、フラメンコレッスンのこと

(11月下旬に始めたフラメンコおほほ。

その時にも尋ねてみたけど、2ヶ月弱経った今のことを

また訊きたい!なぜなら、ハリキッテるからです)

 

<これから意識してゆくとよいことは、どんなことですか?>

周囲の人たちとのバランス。場の中での自分。

<なるほど。皆で楽しく踊る、という性質のものでもあるしね。

その場の雰囲気で気分アガってきたから踊る、とか。>

 

率先して、楽しむ様子を見せることで、

・同じようなタイプの人たちとの交流が進む。

・教室の中のムードメーカーになり、自分の立ち位置も決まる。

 それによって周囲の人たちの「役割」もできあがり、

 関係性が安定して、お互いがそこに居やすくなる。

・その教室全体の空気が軽くなり、居やすくなる。

 その環境全体の風通しが良くなり、好循環が生まれる。

スペイン語も楽しむとよい。

・レッスンの衣装も楽しむとよい。

 <ファルダ(=スカート)探し中です、

 どんなのがいいでしょうかね・・・>

黄色に赤い花。

<わ〜ぉ・・・>

 

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(さすがの正月弁天!炎と煙で賑やか。)

 

3。言葉への興味について

<私ってなぜ言葉に興味があるのか、その起源を教えてください>

(見えて来たのは、仏像。ずんぐりした体型で

 光背が円盤状、小ぶりのもの。くすんだ金色。

 その前でお経を唱える僧侶、周囲からも読経が聞こえる。

 そのあと、白い光で十字架→白い玉に変化((((;゚Д゚)))))))  )

 

仏教の僧侶だけでなく、いろんな宗教での

宗教者としての過去生があり

マントラのような、

神仏に通ずる言葉を唱えることで、

同時に世俗の民衆の癒しにもなっていた。

 ↓

上下、周囲のすべてとつながるという大切な手段として

「言葉」にとても価値を置いていた。

 

<なぜ、言葉が通じない、という苦痛があるのか。

 どうすれば改善できるか>

言葉の価値が大きいままでこの転生に来たので、

言葉に重きを置きすぎている。

 

むしろ、「言葉ではないところ=体」を柔軟にすること、

体に意識を向け、体を愛することで、

自然の循環の一部となること。

言葉を他と切り離さず、

循環している自然のエネルギーの一部だと認識すること。

 

むしろ、言葉でないところを大事にすることで、

言葉もきちんと伝わるようになる。

 <やっぱりここでも、体を自然の一部とする、

 自然と一体化させる、ということが出てくる>

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(弁天様から向こう側へ降りていって、海。)

 

4。原家族(生まれてから一緒にいた家族)について

<私は今後、原家族(亡父、亡母、弟)を本当に許し、

 愛することができるようになるでしょうか?>

(見えるのは、花の咲いた野原に横向きに寝そべっている姿。

 薄手の白っぽいセーター、緊張のない横顔。)

攻撃性が消えた状態を、自分で自分に許している。

白っぽい細身のニットを見かけたら、買ってみると良い。

 

ー ー ー ー ー

キーワードは、自然との一体化。

そのためには、体を ”すっきり” 整えること。

 

どの質問の答えも、他の答えに繋がっていく。

なんか不思議。

これは、練習で相手の質問に対して

アカシャに尋ねているときにもよくある

と感じている感覚。

 

つまり、その時に浮かぶいくつかの質問というのは

すでにつながっている、というか

一つのことを、違うポイントから経験していただけだった

と自覚させられることにもなる、という

感覚なのだ。不思議だけど。

 

スクールの人たちと話していたら、

やっぱり答えがつながっていくという感覚はあるそうで、

もっと不思議。

でも、そう聞くと、答えをアカシャからもらえた気がする

という感覚自体にも、自信が持てて、ナイス。

 

 

ありがと〜アカシャ★

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年賀状心理

毎年、ぐるぐる考えが巡ってしまうのが、

年賀状なのよね。

 

でも、今年はずいぶん感覚が変わった。

重い囚われが無くなったっチューかね。ネズミどしだけに。おいおい。

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鏡餅に寄って来たのは、鹿。いや、インパラ?

 

【年賀状を出すということ】

まえは、年賀状はしっかり書いていたし、

暑中お見舞いも出していたもんだ。

 

ある意味、社会の中で当たり前のことだという認識で

大した疑いも無く続けていたわけだけれども、

私には、そうやって

季節の節目に知ってる人たちに挨拶することで気分も改まるし、

そのたびにデザインを考えることは、

やりがいのあることでもあった。

 

でもいつからか、よく言われることだけれど

年賀状といえば「印刷物」になってしまって、

私は年の初めに、いったい何を受け取ってるのか?

という疑問が湧くようになって久しい。

 

正月にまず抱く感情が「虚しさ」というのは、

ほんと、良くない。すごく困っていた。

 

なんでここまで虚しかったのか。

 

 

【正月一発目はいつも、ふてくされ。世間への。】

私は毎年手作りで一枚一枚仕上げ、

ヘタなりに墨をすって筆で

宛名や自分の住所氏名を書くなどし、

また

一人一人と話しをする気持ちでの文章も添えていた。

当然、一人一人に書くことは異なる。

私には、「当たり前のこと」であった。

 

それなのに、

受け取るのは、自家製大量生産の印刷物。

 

そう。

「それなのに」なのだ。

 

アンバランスが嫌なのだ。

きっと、与えた分、欲しかった、的な感情なのだ。

寂しいコ ((((;゚Д゚)))))))

 

私は、「あなた」への時間を形にして

この一枚を仕上げているという ”のに”。

 

それなのに。

 

あなたから送られてくるのは、

年に一度、プリンタから大量に吐き出され、

束ねて枚数だけ数えられたうちの一枚かよ。

 

そう見えてしまっていた、寂しいコ ((((;゚Д゚)))))))

 

ウザいだろうなぁそういうこだわり感が。無い人には。

 

いや、だから、出してるぢゃないか、ちゃんと君にも。

ってなるよな。

 

わたしは、

定型挨拶文と、梅か鶴の挿絵みたいなやつの印刷物が、イヤです。

どこのサルの子ともわからぬ赤ん坊の顔写真が、イヤです。

私の名前の漢字が指摘後も訂正されないままの宛名の明朝体は、もっとイヤでーす。

 

イヤだと思って見るから、

「お元気ですか〜?」とかいうペン字の一言もイヤだった。

走り書きのような。

どんだけ忙しいんだよ、ってなる。

どんだけ枚数書いてんだよ、アイドルのサイン会並みかよ、ってなる。

正月早々。

だから何なんだよこの束。

ってなるのだった。

 

せめてもの精神面のバランスのため、自分からは出さなくなった。

夏と冬、デザイン考える時間、作業の時間、

確かにヒト労働少なくなった。

あとは、しかたなく、送って来てくれた人にだけ

片手で済ます程度の返事を出す、という、雑務感。

良くない。

気持ちが。

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お雑煮の前に、実は不愉快でした。毎年。良くない。

 

 

【少数精鋭の ”気持ち” たち】

今年ももらった分にだけ返事を出した。

元旦に初詣から帰ったついでにポストを見ると、

あーやっぱ来てるかー、

返事出すかなー、やめとくかなー。

  

ここが、毎年揺れる

意図的 ”ふてくされ” と、

季節の挨拶をホントはやりたくてやってた感覚との、

ハザマでの悩みどころ。

 

こっちが出すか出さんかは期待せずに送って来てくれてる人たちに対して、

もー私出さんから、って今さら宣言するのも

また逆に面倒だし、出しとくかー、ってなる。

 

 ここ数年、

こっちから出さないって態度になってからは、

仕事関係のヒトたちなんかからは

だいぶ来る枚数も減った。万歳。

 

ほかにも、

何度目かにド強調して宛名の漢字訂正を求めたヒトも

やがて送ってこなくなった。

 

我が子の写真バージョンをただ送って来つづける態度に対して

「あなた自身の近況がわかるといいなぁ」と

たった一度だけ伝えた後輩も、

翌年から送ってこなくなった。

 

印刷文章の横に更に、キチーッとしたご挨拶文のみを

カチーッと書いて、ほとんど二重の定型挨拶文にして

送って来つづける同級生にも

同じことを書いて返事を送っていたら、

やっぱり送ってこなくなった。

 

万々歳。

おーいその人たちよ、その、私へ向けてくれていた

労力と切手代とハガキ代を、

どうぞ動物愛護とかに使っておくれ。

 

 

しかし、だからこそ、である。

いろいろ精神状態が変わって来ている渦中の

今だからなのだろう、

急に、ふと感じた。

 

今だに毎年送ってきてくれる人たちって、

もはや少数精鋭。

元旦にこちらからの挨拶が届くことなんて期待もせず

送り続けて来てくださる行動というのは、

気持ち以外の何ものでもないよなぁ。

 

おお。

感覚というのは、変わるものだ。

 

いつもの感じで、利き手じゃないほうの片手で

スタンプ押せば済むぐらいのもんを

10枚程度書き終えて、

投函しに行きながら

なんかすごーく、そう感じた。

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ドアに覆いかぶさる勢いで年神を誘い込む

意気込みの半端なさ 。

これで、硬かった心が とうとう打ち砕かれたのかもしれぬ。

 

【あんた、そげんアイスばっかり食べよるとね】

定型文を使って、いいじゃないか。

メールだって、定型文が自動で選べるようにすらなってきている。

そんなもんだよ、顔知ってる相手への挨拶なんてフツー。

 

言葉を選び、並べることに、

時間をかけたい人ばかりではない。

そのデザインに決めて仕上がるまでに

人それぞれがどれだけ時間をかけたかなんて、実際わからない。

 

私は、偉そうだけど意気込み的には

まるで宣伝広告の制作プロジェクトのように、

総合的に言葉とデザインを考え、

文字と絵について思いを巡らすのが好きだった、

ただそれだけだ。

 

自分がかけた手間ヒマと

おんなじように見える表面こそが

自分と同じ熱量を持つ愛情なのだと、

どうしても深いところで

無意識に思い込んで、

形式を欲しがっていたのは、

他ならぬオレの承認欲求だ ((((;゚Д゚)))))))

 

寂しいコ ((((;゚Д゚)))))))

 

よしよし。

 

 

((((;゚Д゚)))))))

 

 

赤ん坊の顔を見せたい人は、ただ見せたいのだ。

今しあわせなんだろう、なぁ、いーじゃないか。

 

コンビニや郵便局で売られているだけの

ヒトとカブるかもしれない印刷物を送って

自分を表現しようとするのは、むしろ、

こだわりのない潔い姿勢だ。そだろ?

 

それに、定型挨拶文なんて

今に始まったことじゃない。

 

ふと思い出した。 

小学校の始め頃、互いに暑中お見舞いを送りあっていたけれど

同級生からのものにはどれも、その頃の定型的な

「アイス食べ過ぎないようにね」

とかいう一言が書いてあった。

 

それを見たばあちゃんが

「あら・・・みーんな、おんなじことの書いちゃあ(書いてある)が、

あんた、そげんアイスばっかり食べよるとね?!」

と、心配してたもんだ。

 

そんなもんだ。

 

それに、言葉は、言霊持ってるからな。

 

身に覚えは無くとも、

旧年中は、ほんとにどっかでお世話してたのかもしれんしよ。

今年も変わらぬご指導とご鞭撻を、さしあげることになっていくのかもしれんしよ。

ご健勝を祈ってもらっとくに越したこたぁ無いしよ。

 

それでいいんだよ。

それでいくよ。

今度から、また一年わたしの魂の体験につきあっていただけた感謝を込めて、

少数精鋭の方々のもとへ

元旦につくように年賀状に取り組むあたくしに、なる。

ほぼ一年後への決意。

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(博多の総鎮守:櫛田神社

嗚呼、清々し。晴れやかな元旦でした。

元旦だけでなく、これからもまた

一つ一つ決意を積み重ねてゆくのさ。

 

今年の年賀状も、利き手じゃない片手の使用率9割。

心改める境目の正月。

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今年の思いつきは、

昔彫ったゴム版の「迎春」と

一昨年ハワイで買ったトカゲちゃんスタンプ。

 

 

 

【おしえて!タロット先生】2019年を振り返る:下半期

 2019年をふり返っての答えあわせと再考。

このページは、2019年下半期です。

(上半期は、こちらから。)

いくわよー、まず7月から9月。

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7月《ソード8》

この7月は、これまでの人生の中でも

そうそう無かったと言えるほどに、キツかった。

 

様々なしがらみ、巡りまくる思考によって

がんじがらめで動けない。

でもそう思っているのは自分だけで、実は足元は自由。

動こうとしていなかったのは、自分なのでした。

ほんっとに、よく表したカードだ。

 

もしかしてだけど、

もしかしてだけど、

ライダー氏はこのカード、

この7月の私のことを描いてくれてたんじゃないの?

 

短く言うと、6月前半にスクールで

「過去の記憶と向き合う」ために

未だ根に持ってるコトについて

原家族(生まれたときにいた家族)と

実際に話をしろ、っていう宿題が出てからというもの、

私の心はもう、どんより。どん底。ずんどこ。

動けない。動きたくない。被害者意識。がんじがらめ。であった。

 

私の場合、原家族とは、父、母、弟。

両親はもう死んでる(と聞いている。家を出てから

ゆうに二十年間は絶縁状態であったので、

死んだとこは見てない。)ので

とにかく実際に会って話さねばならないのは、弟。

 

生まれてから一度たりとも

まともに会話したことのない相手と、話さねばならない。

話をしてください、とお願いせねばならない。

こっちから縁を切ったにも関わらず。

どこに住んでるかもわからない相手と。

連絡先も知らない相手と。

 

これはあまりにも大きいことなので、

またいずれ書くことにしよ〜っと。

 

とにかく、通るべき道は、通っていくしかない。

というか、おそらく、通るようになっている。

知らなかった連絡先は、

するっと知ることのできる状況となった。

 

6月に宿題が出てから、7月半ばに

連絡をとるまでにかかった40日間、

悔し涙に明け暮れた。

なんで悔し涙なのかも、いずれ書くことにしよ〜っと。

 

とにかく私は自分の歴史の中で

この日々を「嗚咽の40日」と名付けている。

きつかった。

 

で、7月終わり頃、弟から返事が来た。

 

自分が動けば、状況も動くのだ。

動けないのは、自分が動かないからなのだ。

 

8月《運命の輪》

これまた既に、正月に言われていたのね、わたし。

ここ、自分の力ではどうしようもない運命によって、

思いもよらないことが起きるポイントです、って。

 

弟と会うことになったのは、8月2日。

私を知る人たちは皆、

私が自ら弟と会ってしゃべった、と聞くと

本気で驚き、大仰天した。

 

宿題のことなんてあまりにもどんよりし過ぎて、

誰にも話してはいなかったのだけれど、

弟と会うことが決まってから、同居人に

「近々、わたしは、いちばん私がやるとは思えないような

ことをする予定です、さて、何をするのでしょう?」

ってクイズを出したら、

 

「・・・弟と会う?」

 

と、一発で正解されたほど。

私の要望に応えて会って

会話をしてくれた弟に感謝もしたし、

ほんと、この流れというのは、運命そのものだ。

その話によって、

私の過去はほんとうの過去になった。

それは、いずれ書くことにしよ〜っと。

 

ほんとに、過去がびゅんびゅん音を立てて

遠のいて、「過去」になっていった。

頭の周りに何もなくなって、スカーっとし過ぎて

怖いほどに支えが無くなった感覚だった。

ほんとに、耳周りがスカスカしてたような感覚。

 

そして下旬には、さらなるスクールの課題として、

断食と、ビジョンクエスト。

これでまたいろいろと、自分の中が大きく、

なんというかしら、

本来向いていたはずの方向に向き直すことができてきた、

という感覚もあるな。

ほんと、運命の大車輪がゴローン!と回転した8月だった。

 

9月《▼恋人》

このカードの意味としては、

仕事上の協力者がいない、補い合えない、

コミュニケーションがうまくいかない、

「調和」できない、何かを「選択」していかないといけないよ

と言われていたらしいけれど、

なんか、ピンとこないのよねー。

 

もしかしてだけど、

もしかしてだけど、

未来の予想っていうのは、その未来を尋ねた時点での

もっとも起き得ることが来るわけなので、

意識が変わり、反応が変われば、結果も変わるもの。

スクールの宿題に一生懸命取り組んで、

私の意識が変わったので、あまり不調和を不調和として

感じずに済んだんじゃないの?

 

 そして、10月以降も、実は同じように

あんましピンとは来ないんだよなー・・・。

 

9月から12月までのカードはすべて逆位置なのだけど、

つまり、8月に《運命の輪》が回転して以降、

逆位置が、逆位置として感じられなくなっている感じ。

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逆位置というのは、そのカードのエネルギーが

ストレートには現れづらい、という要素を

孕んでいるものとして解釈できる。

 

でもここでは、

その、「エネルギーを遮る何か」が取り払われて、

つまりは逆位置が逆位置の要素を失って、

そのカード自体の意味がストレートに来ていた

という感覚があるのだよなぁ、不思議です。

 

10月《▼カップQUEEN

テーマは「慈愛」。感情部分を受け入れまくる女性性。

でも本来は逆位置なので、

受け入れの度が過ぎて、繊細に感じ取るがゆえに

人の感情に振り回されてしまったり、

心の調和がとれず、感情的な気分になってしまったり、という予想。 

だけど、むー。べつに。

なんちゃなく過ごしたわ。

 

11月《▼ワンド8》

カード自体の性質は、ものごとの急展開を表し、

「これから重要なメッセージが来るよ」ということも知らせる。

個人的な意思などもはや届かないところからの。

 

逆位置の解釈をしたら、急展開に至らないのだから、

滞ったり、喜べない変化が起きたりする、と。

 

いえいえ、私が実際に経験した11月は、

まさに正位置の、カードの性質そのもの。

 

KNOWING の課題の一つであった

「アンタカラナの儀式」が終わったのが11月上旬。

 

そこで得た大きな大きな気づきは、

「音楽とか美術とかカラダ動かすとか、

もともと区別する方がおかしいこと」なのだ、ということ。

そして漠然と、

私はその「どれも」が実は単純に「好き」だったよなぁ、ということ。

 

今までずっと、

音楽をやってる自分という姿を意識し過ぎていたり、

両親の「楽器なら習わせてやるけどダンスはダメ」っていう

考え方を受け継いでしまっていたり、

父親がずっと宿題に干渉しすぎて小学校の頃にいつも

オトナ過ぎる絵を提出していたから

自分は絵が下手だと思い込んでいたり、

と、無意識に区別し、区別させられてもいたのが、

単に馬鹿なことだった、と気がついた。

 

その意識で11月のスクールに行ったら、

自分で見た過去世でも、クラスの人たちによるリーディングでも、

 

「天と通じて自由自在に踊っていた過去世が

 とっても奔放で気持ちよかった」

 

とわかって、

複数の人たちから具体的に

フラメンコの要素を音楽に取り入れるといいとか

スペインのマドリードで踊ってた、とかも言われて、

そのままの勢いで、スクールから戻った一週間後には

あっという間にフラメンコ教室に通い始めることになって、

もうその変わりようが、自分でもこわいほど。

 

でも、すご〜く楽しいんだぜ。

 

これは、人知を超えた急展開でしょう。

カードのエネルギーそのもの、正位置のエネルギーでしょう。

 

12月《THE FOOL 愚者》

カードのキーワードは「自由」

無条件に自分を信じ、何をやるにも囚われない自由な冒険心。

危険も伴うかもしれないけれども、なるようになるさ。

ささいなきっかけからの、新たな場面への旅立ち。

 

逆位置の場合、その不安定な方の要素が強く出る感じかな。

無責任に楽な方に流れる、とか。

 

でも私の12月は、べつに不安定感や、

フラフラ定まらず不精に流れたなんてことも自覚は無かったし、

やはり、正位置の方がぴったり来る。

 

この、「ピンとこない逆位置」は、9月から。

やっぱり、

8月の《運命の輪》が、タロット先生の予想以上に

かなり良い方向に大回転したおかげ、

と言えるのではないかなぁ。

 

私の意識が変わり

日常の一つ一つの出来事への反応を変えていったことで

タロット先生の予想していた「曇り要素」が

取っ払われた、と。

 

「逆位置」の性質を考える良い機会ともなりました。

 

アドバイスカード《ソード6》

逆位置が連続した9月〜12月について、

じゃ、どのような意識を持っていたらよいでしょう?と

アドバイスを求めた答えが、《ソード6》。

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思考や情報、何らかの手段を変える

(=移行させる)ことで解決できるよ・・・

というアドバイスをいただいていたのですね。

 

考え方を変えることなんて、大き過ぎて、

でも意識せざるを得なかった大きな課題でもあったので、

ぶっちゃけ、お正月のタロット先生からのアドバイスだった

ということとしては、覚えてなかった。

 

でも、過ぎてみれば、

言われたとおりのことを、一年かけてやってきていた

ということだ。

まさに、このアドバイスに忠実に暮らしたことで、

逆位置の要素がとれて

すんなり正位置のエネルギーが実現した、というわけで、

なんと言いましょうか、

結果的に、めでたし、でめたし、デミタスコーヒー。

ありがとう!タロット先生!

 

 

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【おしえて!タロット先生】2019年を振り返る:上半期

【答えあわせ】

思ひおこせば、2019年お正月に

これからの一年をタロット先生に尋ねていた。

振り返ってみよう。

一年経って、2019年を実際に経験した私との、答え合わせです。

 

タロット先生による

2019年月ごとの予想は、次の通り。

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概観すると、

1月:動きたくてたまらん、情報ほしい

2月:周囲との調和が難しい、サービス精神持とうとしても持てない

3月:責任感果たしたい思いが満たされない、真面目過ぎて裏目に出る

4月:これまでのことに訣別、あたらしい始まり

5月:バランスをもって、冷静、客観的にものごとを見ようとする

6月:これから地道に創造していくこと、培っていくこと

7月:動けない行き詰まり感は、自分の思い込みよ★

8月:運命はなるようにしかならない、進むべき方向へ!

9月:バランスとれない、選択したいのにできない

10月:うまく受け取れない、受け入れられない

11月:ものごとの展開が早すぎてあっぷあっぷ気味

12月:もう、おバカになっちゃう。無責任!社会性なし(汗)

(9月〜12月の状況へのadvice:なんらかの形を「移行」させることで解決せよ。)

 

【もう少し詳しく見てゆきます】

思い当たるところと、ピンとこないところとの

関係がまた、すごくおもしろいのです。

まずこのページでは、上半期。

(下半期は、こちらへ。)

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1月《ソードKNIGHT》

これまでの(人生の)モヤモヤが溜まりに溜まって、

アタマで思い巡らし、動こうとし始めた。

 

1月は特に、石についての本買ったり、

越智啓子さんの本を読んだり、

新しいヨガの教室探しながら

ヒプノセラピーのこと調べたりしている。

実際に受けられるところはないか、とか、

それ系の本を読んでみよう、とか。

 

チベット体操のことも知って、

チャクラのこととかも、もっと知りたいと思って

ワークショップに申し込んだのも、この時期。

 

自分の中で思考が巡り過ぎて

逆にギチギチに動けなかった状態を突破して、

自分が、情報に向かって動き始めているなぁ、と感じていたとき。

 

2月《▼ペンタクル2)

(「▼」は「逆位置」のことね。)

年度末の、成績を出す時期は、もっとも苦痛の多い時。

授業をまじめに受ける学生だけなら問題など起こらんが、

そうでない者たちで、大学は溢れている。

 

まともに採点していると、毎年毎年、卒業できない者まで出る。

私の責任ではないはずが、毎年、

地獄の亡者がぞろぞろと足元にすがるように、

拝み倒して単位をもらおうとする者に寄ってこられ、

ヘドが出るほど悍ましいのだ。

 

何度も悪夢があった。

本人が拝み倒しに来る。

周囲の親や指導教員や主任なんかまで

直接やってくる。電話してくる。

「この2単位のために、卒業できないんですよ?」

「就職が決まってるのに」

「教員採用試験にも通ってるのに」

これって、一年生でとっておくべき教養科目の、

条件さえクリアしていれば落とすはずのない性質の授業で、

及第点に至らなかった者の態度かね?

 

そしてこの2月にもあった。

自分が条件を満たしていないと考えて先回りして、

拝み倒す手紙とともに、「チョコレートをどうぞ」と

賞味期限の説明などつけて「よろしくお願いします」と。

 

うんざりなんだよ。

本気で泣きながら、高校んときの恩師に連絡とって

相談したりしてんだよ。

私がやってきてることって何なのか?

キリが無いんだよ。

やってきたすべてが虚しくなるんだよ。

 

それが、やっぱりこういうカードで表わされてしまってんだよ。

周囲とのバランスが取れない、柔軟に対応できない

ってカードなんだよこれは。

柔軟な対応とかできるかバカ。

 

3月《▼ペンタクルKNIGHT》

2月に引き続き、年度末の嫌な空気を引きずっていた。

責任感が仇になっている、と毎年感じるとき。

自分の考えにこだわってしまっていた、とも言える。

 

結局、ほかの教員は、面倒なことにならないように

テキトーに流しておく、ということができているようなのだけれど、

良くも悪くも、私にはそれができない。

そんなことも含めての、1月《ソードKNIGHT》の

理想への駆けずり回り感でもあったのだ。

 

そんな流せる教員の中には、

こいつマジでテキトーやもんなー、と

蔑みたくなるような教員もいるが、

まともに有り余る能力による裁量で

玉石混交の受講者の期末レポートを

さらっと片付けていく先生もいないわけではない。

 

だからこれはやっぱり、私の中の問題なのだ。

学生が良いか悪いかは、学生側の問題としてあるだけで、

私側の問題として、私の苦しさはある。

私が向かい合うところは、私側の問題だけ。

 

あと、3月終わり頃の卒業式でも、

違うようで同じような性質の、しょーもないことも起きた。

 

数人の教員が、浮かれて気前よく

自分が担当していた学生たちや我が子まで(いつも引くわ((((;゚Д゚)))))))汗)

宴会に同席させたはよいが、

その飲食代を自分が持つ気は無かったらしく

(ヒトの財布までアテにして ”奢ってやるからおいで” と言っていた、

って恥ずかしくないか?)

後日ズブズブの情にまみれた、ミョーな割り勘が始まったので

その発想の貧相さと不自然さを指摘したところ

年をまたいだ今も、その割り勘の計算が

ペンディングになっているという、クソアホらしい話。

 

これも、私がツルむ気のない仲良し教員たちの中では

またアイツだけが理屈を並べて文句を言っている、

って空気なのだろう。

カゲでは、私に同意してくる人たちもいるのだけれど。

カゲでは、な。

 

単位のことにせよ、割り勘のことにせよ、

私が経験している性質は、同じなのだ。

 

我慢しきれない状況に置かれて仕方なく考えを述べると、

「自分は大きい声では言えなかったけど

 実は正しいことを、あの人がきっちり言ってるので

 あの人んとこに行ってちょうだい」

的な位置に置かれて、なんか気がつくと

私を除いた周りどうしはうまくやっている。

こっちにはますます理屈屋のレッテルが貼られていく。

そんな《▼ペンタクルKNIGHT》。

 

 次。4月から6月。

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4月《DEATH 死》

新しいステージへの変化。

すでに変化への心は決まっている段階。

 

KNOWING スクールに申し込んだのは、3月の終わり頃だったと思う。

いくつも重なる採点の苦痛をはじめとして

自分側の地獄を見る思いの年度末を

何度も過ごしているうちに、

さすがに、鈍感な私も

これは自分の中で起きている問題なのだ

と気づいて、なんとかしたいと思っていた。

 

で、ある日、YouTubeをかけっぱなしにして

皿を洗っていたら、

勝手にKNOWING の説明会の動画が流れてきて、

ここ行こう、と心は瞬間的にすぐ決めたのだ。

(意識的に決定するまでは、多少時間がかかったけど)

 

あー、ここ行けば私はスッキリできる、と感じて

涙がぼろぼろ出た。

 

ほんと、こういうのも

《死》のカードが表す「終わりと始まり」なのだなぁ

と体感した感じ。

5月からのスクールを、ワクワクしながら待っていた。

 

状況は変わってないのに、気持ちは

もう完全に新しい方向に向いていた、

っていう時期だな。

 

5月《THE HIEROPHANT 司祭 法王》

主に”精神面をまとめる”という観点での、

社会の中で現実を生きていくのに必要な指導者。

 

救いとなるものを求め、

安心できる信頼関係を得るカード。父性。

 

このカードが表す父性で解釈できる立場の人とは、

自分の成長や人生そのもののテーマとも関わるようだし、

まさに、5月から通い始めたKNOWING のことだな。

ゲリーさんのことともとれるし、

スクール全体という環境ともとれる。

 

モロに精神面の救いだったわなぁ。

安心できる場所だと感じたし、

けれどやってる内容はむしろ

スピリチュアル的に俗世間から離れるどころか、

現実的に、社会の中にきちんと身を置くために

自分を捉え直していくこと。

 

地に足をつけた、穏やかな方法で。

ん、ま、スクールでのワークの中には、

穏やかでない方法とかもありましたけど(汗)。

 

このカードを引いたお正月には、まだ

KNOWING の存在なんて知らないし。

まったくピンと来るはずもないことだったのに、

今ふり返って見ると、ぴったり過ぎるほど当てはまっている。

 

タロット先生、おそるべし。

 

6月《ペンタクル3》

これから良きものを創造していくには、

まだまだ時間を要するよ、という段階です、と

このカードは示していた。そのとおりだな。

スキルを培っているところ、という感覚。

 

6月に、KNOWING で重〜い宿題が出たんだ。 

宿題は、絶対にやると決めている。

スッキリしたい一心で通っとるのだから。

 

嗚呼、苦しんだ宿題の日々(涙)。

一生続く「自己認識」の旅(涙)。

 

怒涛の展開は、下半期へ続きます。

逆位置の読み方について考える機会にもなった

【おしえて!タロット先生】2019年を振り返る:下半期  」へGO!

sachi-de-saint-phalle.hatenablog.com

 

 

正月ですタイ。

明けましたなぁ。

 

【2020年ですなぁ】

年月って、経つもんですなぁ。

 

今年は、華丸大吉の華ちゃんのように、

おいしゃん口調で生きていきます。

けっこう、いいんだ、これが。

険しさをそぎ落とす感じが。

 

ちょっとしたイラつきや、「・・・ん?」みたいな感覚もすべて

包んでポイ、と放る感覚になれるというか。

最後にとりあえず、「ふむ・・・そーですなー」

とか言っとくと。

 

一年の計ですタイ。

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(アラスカでエベレスト制覇したポーズか。)

 

いやー、というわけで、

今年の正月は、初日の出も見らんで、明るぅなってから

初詣に行きましたーぁぁ、もう、ものすご寒かったですもんねー。

 

 

【令和の巫女】

今年は、巫女さんが超不作の正月だった。

あるいは、令和の巫女は、もうあれでいくのか?

 

初詣のときの巫女さんって、

バイトとは言え、ふつう、

 

明るく、めでたゲに

「あけましておめでとうございます!!」

「お神酒をお受けください★!!」

「本年もよろしくおねがいいたします!」

などとハキハキご挨拶するイメージ。

 

お守りや縁起物を買うために

こちらがお金を出す場合には、

これお願いします、ってさし出すと

例えばいったん受け取って値段のことは

「◯千円 ”お納め” ください!」

ってぇ、言うものだ。

 

あー、「(自分らが)いただきます」じゃなく、

「(お神様に)お納めください」ねー、と。

 

暮れに一連の教育はされたんだなー、と

わかるものだったけれども・・・

 

その爽やかな流れで、こっちも、

ストーブだけじゃ着物で寒いだろけどねー、と思ったり、

でも、やっぱ必要な役目だしねー、と思ったりで

いつもの正月場面として通り過ぎる

というか。

 

しかし、今年の巫女たちは。

やはり、令和である。

 

お櫛田さんでお神酒受けようとしても、

なーも言わんし(汗)

AIのほうがもちょっとなんか

セリフ組み込まれとるような、

気がしますなー。

 

愛宕さんでは

縁起物を買うにあたって、いつも買う同じヤツにするか

気分を変える(ややライトな感じになっちまう)か、

けっこう私ら迷った挙句に、

やっぱ、いちばん大きいカッコいい、いつものでいこう、と

「大願の矢」というのを一つとって・・・

 

「これお願いします」と差し出したのですけれど・・・

 

黙って手は前で合わせたまま立ってるので(汗)、

あ、無駄な動きを省く巫女さんなのか(汗)、と

慌てて、

大きい大願の矢を持ったままもごもご財布を取り出し始めたら

「◯千円いただきます」

と、

ふつーにお札うけとって、

そのままお金を置く場所に消えてった。

 

「・・・私らは、もうここ離れていいのかね?」

一瞬、いや二、三瞬

戸惑って合理的現実的巫女の背中をだいぶ見つめた。

いただかれた◯千円は、

直で彼女のバイト代になったトですかなー。

 

帰ろうとして、別のところで、同居人氏が

華やかな熊手を見て

 

「オレ、これ買う」

と瞬殺されてしまった。

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ま、とにかく、派手である。

豊かさを、庶民的に表現したらこうなった、という感じで、グッジョブ。

 

人出はおおいけれど、ちょうどその売り場には

人はおらず、巫女二人が立っているだけ。

 

そんな空間でも

たしかに、気になるかわいい楽しいゴージャスさ。

 

私たち二人でちょっと触って角度を変えたりしながら、

眺めておった。

 

いちばん上の文字は、何ていう文字なのかね?

梵字のような。

干支の「子」か?

「千」をネズミの尻尾っぽくしたものか?

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すぐ前にぼーっと立ってる巫女さんの一人に、ダメ元で

「これ、なんて書いてあるかわかります?」

 

「・・・あ、ちょっと、聞いてきます」

あ、やっぱそこまでわかってるわけじゃないよね

そりゃそーだ、と思って、

 

いや、いいんですよ

(わざわざそっちの数メートル離れた社務所の中にいる

本物の神官さんたちとかのとこに行ってくれなくっても・・・)

とぐらいに言うつもりだったのだけれども、

 

次の瞬間、聞いてくると言った巫女は、

すぐ隣に立ってるもう一人の巫女を小声で誘い、

二人で寄ってきて、

二人で覗き込み、

首をひねりながら黙って立った。

 

ああ、隣に聞いたのか。

 

私ら四人、金色の作りもんを囲んで見下ろして

頭を寄せ合ってるだけなのであった。

風は冷たかった。

 

「あ、すいませんもういいです、じゃ、これください」

黙って受け取った一人が、

二歩ほど離れて、

シャバい小さめのコンビニ袋を取って

熊手をそのままシャバっと入れて、

そして

こっちに持ってきたと思ったら、

 

明らかに、

 

それを渡す私たちを、

彼女はキョロキョロ、キョロキョロ、っと

探したのでした。

 

けっこうな角度に目を泳がせて、というか、

首を動かして。

 

ずっと私ら二人しか客おらんやろ?

今、いっしょに四人で頭寄せ合っとったろ?

 

見えてないのか?

見ようとしていないのか?

人は、見たいものしか見えない、

期待したものしか見ようとしない

って言いますからなー。

 

ゆるすぎますなー。

令和ですなー。

 

【よかタイ。豊かさもGET】

そんな巫女体験から帰ってきたら

マンションのお隣のお箸やさんがお正月から開いとったもんやけん、

無いまんまやったお正月用のお箸も買うて、

めでたい鶴の敷モン(ランチョンマット的な、ね 《汗》)も買うて、

ものすごオマケしてもろてから、豊かさGET!

もー、新年早々ラッキーですタイ★

 

なんかごちゃごちゃーとしてから、うちの正月ですタイ。

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屠蘇も雑煮もおせちもブリも、死ぬほど旨いよありがとう。

 

今年もよねすけ。

 

 

サンファルの過去生 --踊るバカ女--

 ノウイングのワークで、広い意味でアカシックリーディングとも言える、退行催眠というのをやったんだ。

 

 過去に自分でもやったことはあるのだけれども、今回のテーマは、「アカシックにバリバリつながっていた自分」につながること。

 そして、それはもちろん「今の自分に、見る準備のできている」過去生。

 

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こんなキレイな東京タワー見たことない、と東京の方々も写メ撮りまくり。

 

【想定外のバカおんな登場】

 以前にも、前意識になるための軽い練習として、自分の過去生を見る練習をした時に、「サイキック能力を使っていた過去生」を見たこともあったし、自分で他のテーマとして見ようとしたときに、あーこの時の私はサイキック能力持ってたのねぇ、という過去生を見たこともあったので、まぁ、その中で見た過去生の誰かが、たぶん出てくるんだろうなぁ・・・などと、思っていたのだった。軽く。

 

ところが。

 

違う人が出てきた。

違う転生。

 

なんか、踊ってる姿が、見えてきたんだ。

 

くねくね。くるくる。

ベリーダンス的な。

若く、美しい踊り子ヽ(´▽`)/

 

ただただ、ジブンの体に、

上から来るエネルギーを通すひと。

実に、気持ちがいい。

その感覚は、この今の私に、すごくわかる。

気持ちいいんです。

そして、これなんです、私が欲していたのは。

 

【おかげで納得できてゆく記憶】

一瞬にしてわかるこの感覚。

小学生の頃から私は、

無邪気にはしゃぎまわる同級生や

年の近いいとこたちなどを、

「子供らしく無邪気で、いいなぁ〜」

と心底おもって、眺めていた。

無邪気さが、マジでうらやましかったのだ。

ほんとうは無邪気にしていたかったのに、

でもできない、という強烈な意識があった。

押さえつけられていて。

 

【バカおんなだもの・・・奢り】

その踊り子の私は、天真爛漫。天衣無縫。

天からエネルギーが来るままに、

体を動かせばそれは「踊り」になり、

声を出せば「歌」であり、

言葉になれば「メッセージ」として人々に染み込む。

 

外でも踊り、酒場でも踊る。

賑やかな音楽に合わせて。

賑やかであればあるほど、アガる。

踊れば拍手が来る。

歌えば耳を傾けられる。

上からの言葉を聞かせてほしいと

酒場の客が次々に言葉を聴きにやって来る。

毎日、毎日。

行くところ、行くところ。

拍手と賞賛の日々。その繰り返し。

 

だんだんそれに飽きて来る。

あーあ、タイクツ。・・・ってなる。

 

そんなタイクツ心がふくれあがる中、

噂は独自に噂を呼んで、

やがてその国の権力者の耳にも入り、

とうとう王子様まで、上からの言葉を聴きにやって来る。

お互い、まんざらでもない感じになった。

 

しかし。

王子様の態度なんて、ただ一時的なもの。

片や、バカ女の方は、

ほれ、ワタシの才能と美貌は、一国の将来の女王にも値する!

と、鼻高々。玉の輿!万能感。

 

【今生のブロックは、自作です】

わかりやすい話だ。

たかが踊り子風情で・・・と、

高くなった鼻をへし折られる。

町から蹴り出される。

もはや、人々は冷たい。

 

死ぬときに抱いた感情、決めたことは、

「自分を出しすぎると、痛い目に遭ってしまう」

「言いたいことは、言ってはいけない

 

これはあくまで、まだこの踊り子個人としての

ごく狭い、ミクロな感覚。

ジブンは悪くないのに、的な。

 

オーバーソウルの視点から眺めた。

ほんとうは、そゆことじゃない。

 

彼女には、感謝が無かった。

 

感謝さえあれば、完璧!

完璧に、私の理想の生き方。

 

【どう生かす!?その過去生】

そうなのです。

そこを、過去生を見た後の

ジブンの中の「ひとり反省会」で、話題としたわよ。

 

前半の、踊るイタコ状態は

まっさっにっ、ゼロ葛藤。

才能を謳歌できることが、いかに幸せなことか。

そこに、まったく意識が向いていなかった。

いかん、いかん。

過去のいつの人なのかは知らんが、

若い踊り子さんよ、それはいかんよ。

 

同時に、目を閉じてこの転生を見ていた間の、

あの懐かしいリアルな気持ち良さ。

あれです。

ワタシの本性が感じていた、そして

永遠に感じたいと追い求めていた、リアルな感覚。

 

才能を楽しむ能力。

さらには、それを持ちながら、

多くの人にそれを認められ、賞賛され、

またかれらの資源ともなって感謝までしてもらえることが、

いかに幸せな循環であることか。

 

そこに感謝の念を持つ人になろうよ。

そういう人でいようよ。

 

 【災い転じて、塞翁が馬。かも。】

感謝の念が無かったことでスパッ!と

それまでの生活から転落してしまった、という人生後半。

それを象徴的に今生のタイムラインにつなぐポイントが、

10歳頃の、母の買い物について行ったスーパーの前の場面。

 

母がスーパーの前に自転車を止めている間にも

私はただ機嫌よく、その当時テレビで見続けて好きだった

渡辺真知子の「カモメが翔んだ日」を、

身振り手振りも真似しながら歌っていた。

誰の目を気にするでもなく。

ちょうど、歌い始めの、

 

  ♪ハーバーライトが 朝日に染まる

 その時 一羽の

    カモメ〜が〜、飛〜ん〜だぁ〜〜

 

の、「飛〜ん〜」のあたりだった。

並べられた自転車の間で、

抑えて吐き出す息と一緒にツンザクような母の声が

 

「やめなさい!恥ずかしかっ!」

 

・・・恥ずかしか・・・?

 

その声と言葉は、私の胸にぐさっっ!と刺さった。

 

まるで、ジャンプした瞬間に、脳天をスパイクされて

ばんっっ!と地面に叩きつけられたような。

私のすべてを一瞬で

ぐっっっ!と封じ込められたような。

 

今の今まで、そのほんの1.5秒程度の場面は、

私とはどこをとっても正反対の母の言動の一つとして、

私の方が許して忘れ去っていくしかないものだと思って

心の隅に追いやっていた。

強烈で鮮やかな痛みが続いていたとは言え。

 

けれどそれはまさしく、私が

最も懐かしみ、

最も取り戻したがっていた

踊り子の封じ込められた感覚を思い出すための、

欠くべからざる重要なゲートなのであった。

 

今生での私の母なる人として、

私があの母親を選んだ大きな理由の一つは、

そのゲートから

あの踊り子の天衣無縫さにつなげてもらうことに

あったのかもしれない。

 

なんと巧妙な。

なんと回りくどい。

もともと覚醒しているくせに。

 

・・・ったくよ。

 

そのくらい大きく視点の広がった経験だった。

 

【おぉ・・・!】

あとちょっとなのだ。

私の感覚。

私は、あとちょっとで、のびのびと楽になれる。

 

その後のアカシックレコードの読み合いで、

ある人が見てくれた。

「メスがすーっと入っていく感じ。

 ちょうど、蛹が羽化する時のように。

 もう、準備できてる。脱ぎ捨てれば、きらびやかに羽ばたける。」

 

・・・だろー?

 

過去生退行プロセスの最後には、

感謝の念を持つワタシとなったところで、

さて、どうぞ、

今の私と、統合しましょ。

 

・・・ドッキーング!

 

統合しました。

ちょっとスタイルも良くなった気がするぜヽ(´▽`)/

 

 

 

フジコ・ヘミングのお役目 〜誰にも奪いようのないもの〜

10月24日、フジコ・ヘミングを聴きに、福岡シンフォニーホールへ。

 

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ツアー、すごい頻度だ。

前回のツアーは、福岡が確か5月下旬。オーケストラとの協演。

 

私はそっちは行けなくて、ちょうど東京にいられた6月に

すみだトリフォニーホールで聴けた。

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ソロが聴きたいけどなぁと思っていたら

うまいことチケットがとれた東京の方はソロの日で、ナイス。

 

今回の福岡も前回同様、オーケストラとの協演なので

わたし的には、たった4ヶ月ぶりの贅沢とは言え、

協奏曲などという未体験の予定。

 

ところが、です。

 

とんでもないことって、起きるのです。

 

フジコ、まさかの大遅刻!

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協奏曲を楽しみにしていらした皆さんごめん、って(汗)

そして遠いところからやってきたオーケストラの皆さんの方は、

フジコ無しで、ふわぁ〜っと演奏。

 

18時20分に空港に「到着」(予定)って、

「着陸」っていう意味の?・・・よね。

空港出るまでに、だいぶかかるよ?

18時30分開場、19時開演だよ?フジコー!

 

ちなみに、私が仕事から博多駅に戻ったのが18時10分。

みょーに腹減っていて、

地下鉄の時間とのタイミングもあって

うーむ、どぉしよう、ギリギリになりすぎるかな

とか迷った挙句、

えーい、迷っている時間がもったいないわ!と

蕎麦屋に飛び込んだ頃・・・まだフジコは空中にいたのかよ。

 

オーケストラが1時間ちょい演奏して、

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ジャ、ジャ、ジャ、ジャ〜〜ンと「運命」やってくれたりして

ま、これも運命よねー、

この人たち、そう思って弾いたりしとるのかな、

なんて思いながら、

なんっか、音うつくしいけど、

このホールの音響、オーケストラなんて不慣れなワシには

度を越してやーわらけーなー・・・

などと思いながら、

聴いていたら、あっちゅー間だった。

 

フジコが出て来たのは、

休憩を挟んで、そうねぇ、20時20分頃?

も少しあと?半近く・・・ぐらいだったかな。

 

やたー!到着ー!

ほんとにここまで来たー!フジコー!

 

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これは終演直後。ステージ両脇に、オーケストラが使った椅子が積まれたまま。

急なこととは言え、なんで要らんもの

ステージの上に置いたまま、フジコスタート???

なに?この、雑多感。

そうまでして、急な変更ぶりを演出せんでもよかろうに。 

 

スタッフの人に支えられながら、ゆっくり歩いて登場したフジコ。

マイクを持って始めにおっしゃることは、

一人では歩きづらくて補助がいることへの、
なんというか、
「カッコ悪いとこお見せしちゃって(テへ)」
的なところ。
 
この大ハプニングの説明は、そのあと。
この順番が、永遠の少女フジコね。
いいわよ、その調子。
 

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一週間ほど前に、ロンドン公演に行くところだった
パリ北駅?だっけ?で、
スられちゃったんだってー(泣)
 
「あの辺は、スリが多いんです。」とフジコ。
まぁイギリスへはパスポート無しでも入れたけど、
福岡へは〜・・・と、大変だった様子。
(福岡が、日本ツアーの初日だったのね。)
 
フジコと言えば、父親の国籍との関係で
たしか19歳まで?だったかな、無国籍状態でいたから
留学したい時期にすぐには動けなかったりという、
人生を左右するやきもき体験もなさってる
と、お聞きしております。
 
そんな方が、世界的に有名になった後にまた
よりによって
日本へ入ることを阻まれるなんて。
 
 
「列車の中でも、寝てなくって・・・」
「20分ぐらい前に着いたばかりで(みんなため息)」
「うまく弾けるかどうかわかりませんけれど」
 
まぁこれは、とは言え弾けるっていう前提と、
実際弾けた事実があるから
ふつーに許される、成り立つ挨拶なのだ。
やれない人が、前もって口にしてはぜったいダメなやつ。
 
そして、自分はうまく弾けないかもしれないけど
みなさんはぜひ、
「この後のオーケストラの方々の、素晴らしい演奏の方をお楽しみに」
と、もはや状況も把握していないフジコ。

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いいんだよ、フジコ。
 
ピアノの前に座りさえすれば。
そこからフジコの世界だから。
 
弾き始めるフジコ。
 
 
今日はちょっと体調が〜とかさ、
事情があって練習できてなくって〜とか、
あーもーリハ無しでどーなることやらー、とか、
なんなら、
なんか、なんっか、なんっかが、ヘンなんだけど!とかさ、
 
オレたち演奏ってもんをしたことがある人間なら、
いや演奏に限らず、
人目に晒される何かをやったことがある人間なら
その多くが、
自分のパフォーマンスがうまくいかないことを
「自分の外」のせいにするリクツを、
まるでそれが客観的な
避けられない大前提でしかなかったかのように、
自分は単なるその被害者で
憐れまれることを求めるかのように、
言葉にしてしまうよなー。
 
よく聞くし。私も例外ではなかった。

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ネオン街に向かって、反省。

 
その自分の演奏が影響を受けている要素が
「自分の外」から始まっていようが、いまいが、
そもそも環境とは影響を受けるもの。
影響を受けてこその、生の環境。
影響を受けた環境の中で
自分の持つものをその時の完璧な形で発揮できなかったのなら
それは、そこまでの力でしかなかった
ということだ。
 
フジコはわざわざパリから、大変な思いをして
そういう「上」からの伝言
(=私たちの「中」から気づくべきこと)を
届けに来てくれたようなものだ。

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金のスカルをネオン街に向けて、感謝の意を表明。

 
盗難事故被害の精神的動揺、
パスポートの無い不安と混乱、
それに伴う入国手続きによる疲れ、
海外からの移動の疲れ、
直前の曲目変更、
慣れない街での慌ただしい移動と
練習リハ無しでいきなりの本番。
楽屋の混乱、
たった一人のステージ。
 
そして最後には、
命がけのような覚悟でないと弾けない、
その人の生き様がすべて出ちゃうとおっしゃる
リストの「ラ・カンパネラ」を、
会場全体が心待ちにしている。
 
おそらく、究極の
 
「入り込む」
 
「ゆだねる」
 
「込める」
 
を見せ、そこから響く音を、聴かせてくださった。
あれが、
 
「誰にも奪えないもの」
 
だ。
外からの要素には左右されない
いや、「左右させない」ところの。
 
ナチスの迫害という不条理な状況に翻弄され、
逃げて、逃げて、
飢えながら隠れて、
見すぼらしい姿になりはてたピニストが、
ドイツの軍人に見つかった極限状態で
そこにあるピアノを弾いてみろと言われて、
 
 
弾く。
ピアニストの音で。
 
 
あの時の、感じに近い。
誰にも奪えないもの。
神もその人から奪い去ることができないもの。
 
 
もう、ほんっとフジコったら。
これまでの経験へのご褒美のように花開いた今を謳歌して
ゆったりと世界中を楽しみながら
演奏して回ってたらそれでいいじゃないの。
 
でももはや、そこに集まってくる人々に、
神が(それはつまり、自分の中の、気づける部分が)
気づかせるために
フジコは動かされ、伝える領域に入っており、
そしてそのこと自体が、フジコへの終わりなき試練なのかもなぁ。 

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そういうふうに
神の使いとしてのフジコのお役目に少し気づきつつも、
私はまだまだ、
あぁフジコがうまく弾けますように、などと
試練を受ける生身のフジコ自身のことも、
すこし心配したりした。
 
フジコの指がほんっの時々となりの鍵盤に触れてしまった時には
自分のことのようにドキッ!としたりしてしまって。
弾く人への「共感」が、いつにも増して
大きくなっていたとも言えるかな。
 
それはまるで、
部活で監督に見込まれた先輩が
居残りでさらに特訓受けているのを、
固唾を飲んで見守るしかない補欠後輩みたいな
無力かつ純粋な感覚だった。
・・・フジコせんぱい・・・・・(涙)
 
アンコールまで済ませ、
フジコはやはり
「この後のオーケストラのベートーベンにも
大きな拍手をお願いいたします」
とかなんとか、
ひとりだけ違う時空から挨拶をして、
ゆっくり消えてった。
 
ありがとうフジコ!
ごゆっくりお休みになられて、この後も各地で
人々に多くの気づきを、どうぞお与えになり、
またご自身も、日々お健やかに〜!

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しっかりと何かを学んで、

雨に濡れた中洲方面に帰るさち・ド・サンファルヘミング。